あ欅ましておめでとうございます。今年もよろ坂お願いします。
私事としては今年も引き続き「のんへんたらり」と開けます。というか私の事なんてどうでもいいのです。
紅白が大変だったのである。『不協和音』を見て「やっぱ欅坂かっけー」と納得して高円寺に飲みにいってしまったのだが、その後にメンバー三人が過呼吸で倒れる。ネットやスポーツ誌などにバーッと載ったのでご存知かと思う。
アンチにはずっと「口パク」と叩かれ続けられているが、これだけ「魂のこもった口パク」をやってのけたのはさすがだ。この上さらにバカにする奴らはもはや人間じゃないので放っておくことに致しましょう。
だいたい「まともに息が出来てるのか?」と思うくらい激しいダンスなのに、さらに生歌でうたえってほうが頭がおかしい。
年末の有線大賞での平手ちゃんは「態度が悪い」と叩かれ、平井堅とのコラボ・パフォーマンスは絶賛され、翌日の番組でまた叩かれ、紅白の印象度では欅がダントツ一位とか(曲のラストに平手ちゃんが一瞬、ものすごく不敵にニヤリと笑うのだけど、まるで悪魔みたいなカッコよさであった)。
これはもはや伝説を更新中。我々はいま、伝説をリアルタイムで見ているといっていい。
『村八分』のチャー坊は気が乗らないとライブでも歌わないとか途中で帰ったりしていたらしいが、もうあの子は「そっち側」に行っちゃったっぽい。
自分は欅坂46というグループをかなり俯瞰で見ていて(ちなみに正統派アイドルの二次団体「けやき坂46」にはほとんど興味がない)、極端に言うと『仁義なき戦い』シリーズを追っているような感じか?
平手友梨奈のフロントありき、ということは否定しようがないんだけど、あれだけの人数でフォーメーションをビシッと決めて踊られるとやはり圧巻なんである。
曲ごとに表情が違うので、ちょっとしたミュージカルを見ているような気分になる。
で、年末には今泉佑唯さんが二度目の休業。その直前に出た雑誌のインタビューが「平手と私は目指している場所が違う」「誰も喜ばないだろうけどセンターになりたい」etcと、かなり赤裸々な記事。
そういうアレがあって、あれなのかなあと、俯瞰で見る者としては思いが巡ってしまうのだった。
しかし欅坂内フォークデュオ『ゆいちゃんず』も大好きなので、残念なことであるなあ。
「秋元康は日本の文化をダメにした」という定石の言い方がある。実際に最近もそういう話を振られたのだが、正確には「秋元康には功罪がある」だ。もう前述みたいな紋切り型の物言いはいい加減やめて自分の頭で考えましょうよ。
去年のレコード大賞を見て感じたことは、ほとんどのミュージシャンには「功も罪もなんもない」ということだ。今は売れてるがあとはあっさりと消えるだけ。和製マイケル・ジャクソンって、何なん?
最もキラキラして華やかなのは楽曲も含め、AKB、乃木坂(レコ大おめでとうございます)、欅坂のアイドルたちだった。
彼女たちの存在がなければJポップなんて、本当に華がなくて、しょぼい。その証拠にやたら往年の大物に時間を割いていた。そうしないと見られたもんじゃないからだ(しかしピンクレディー再結成は迫力であった。あの振り切り方は昭和ド根性の賜物)。
おニャン子クラブだって、立派な80年代の文化だと思う。ヨーロッパのインディーズ映画が好きですと言われても「結構なご趣味ですな」としか返せないが、おニャン子に「命を救われた」人々は日本中に巨万といる。
以前の自分のブログを読むと『不協和音』が出たあとのテレビを見て恐れをなし、「このままだとてちが本当につぶれる」「これから本当の不協和音がおこる」とか書いていて、それが見事に当たった。
一ヵ月後、グループがどうなっているのかわからない、というリアルなスリリングさがある。結末もみてみたいと思う。いやーながいきはするものです。
泥沼で踊るところはカットか!最新カッコいい系欅坂『避雷針』
ATG制作の『TATTOO〈刺青〉あり』(82・監督/高橋伴明)を久々に観た。
やはり最も印象に残っていたシーンは昔と同じで、えーっとバカみたいだけど書いちゃっていいすか?、主演の宇崎竜童が一度実家に逃げた嫁(関根恵子)を連れ戻し、食事させるシーンだ。
「栄養あんねんから」と、レバと納豆となんだかんだをバターで炒めた不気味なものを出す。くっそ不味そうである。嫁はほぼ箸をつけられない。
その後、帰宅した関根は袋のチキンラーメンを作ろうとするが、宇崎が「栄養がない!」と、もぎとってしまう。
関根はそれを奪い返し「うちはこれが食べたいんや!」と床に腹ばいになって茹でる前のチキンラーメンをぼりぼり食う。
「うちが稼いだ金や。なに食べようと勝手やろ(正論でございます)」と吐き捨てると、切れた宇崎が関根をボコボコにする、というかなりしょうもない展開。
このボタンの掛け違い。よかれと思ってやってるのに結果は最悪。主人公の人生を象徴しているように見える。
彼の名は竹田明夫。「梅川昭美」という実在の人物がモデル。
日本の犯罪史上、恐らく最も凶悪な銀行強盗である。
以前にもブックレビューでここに書いてます。お暇な方はどうぞ。
http://suicidou.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AC/%E5%9C%B0%E7%8D%84%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B3%E3%83%9E%E3%83%B3
この作品の特徴は、制作に関わった人々すべてが梅川昭美に対してかなり「寄せている」ということ。
少年期から事件までの彼の人生をフィクション交えつつ丁寧に描いている。明らかに何がしかのシンパシーを感じている風だ。プロデューサーは井筒和幸なんですね。
タイトルは竹田が胸に入れている薔薇と虎のタトゥーのことで、冒頭に「こわ(く)見えたら何でもええんや!」と、刺青を彫るシーンがある。
(刺青師を演じるのは泉谷しげるで、他にも原田芳雄、植木等、ポール牧などゲスト出演が豪華。主題歌は内田裕也の『雨の殺人者』。思いっきり、寄せてるなあ)
で、これをチラ見させ、借金取り立てなどのこわい系の仕事を請合う。しかしこの程度の墨でビビらせることが可能だったのだから、平和な時代でもあります。
母親は息子を溺愛している。「30は男のけじめ」と固定観念を植え付ける。
息子は母親思いで(マザコンと言ってもいい)、母の教えどおりに30で「でかいこと」をやるのだが、それがかなりムチャな銀行強盗だった。
本人にとっては「でかいことをやる」のが最大の目的で、結果はどういでもいいと思ってるような節がある。
こう書くとあれですが彼にとっては「自己表現」だったのだろうか。少なくとも制作陣は「その意志」に共感する部分があったのではなかろうか。
事件そのものはカットされている。やらかした行為があまりにも残酷でえげつないからか。そこまで描くと「悲劇のヒーロー」じゃなくなるからか。
母親思い+大志ありという図式に「銀行強盗」をかけたら、すべてがゼロになった。あ、マイナスか。
関根が新しい男を宇崎に紹介するシーンがある。男は「鳴海」と名乗る完全なヤクザで「そのうちでかいことやったる。新聞でおれの名前を見つけたら友達って言ってええで(だったと思う)」と宇崎に告げる。
多分モデルは山口組の抗争で有名なヒットマン「鳴海清」じゃないだろうか。この二人が出会ったというのは映画的な演出なんだろうけど。
そして宇崎はセフレみたいなつきあいの女の子にまったく同じセリフを吐く。きっと「カッコええな~」とか思っちゃったのだろう。
ラストは夜行列車のプラットホームに、息子の遺骨を抱えた年老いた母親が降りる。
そして、事件のときに気取って身につけていた息子の形見である「ハット」をかぶる。そこに流れるのが宇崎竜童歌唱による『ハッシャバイ・シーガル』。
凶悪犯罪者を完全に美化しすぎである。が、そこは映画なので。めっちゃ感動します。
女性はまったく受け付けないだろうと思います。男泣き限定作品。
今年、地味にはまったものとして「洋画コメディ」がある。DVDスルーがやたら多くて日本人にとっては一番馴染みがない上、パッケージやタイトルを見ても煽りが少ないので、それが面白いのかどうかわからんのである。
コメディ棚の半数近くはラブコメ、という偏見もある。こちとら、一本筋の通った、頭のネジが何本か抜けた、ビッとしたバカが観たいわけで、恋愛でほわんほわんになった男女なんてどうでもよろしい。
大傑作『スーパー!』で感動したあたりから手を付け始め、『スーパーバッド 童貞ウォーズ』『ズーランダー』『ネイバーズ』『ジャッカス・ザ・ムービー』『クソジジイのアメリカ横断チン道中』『チームアメリカ★ワールドポリス』『サウスパーク無修正版』『シリアル・ママ』『バス男』『俺たちニュースキャスター』『ホットファズ』『宇宙人ポール』『ゾンビ処刑人』等々(ここにあげたのはすべて名作)、ちょいちょいつまんでいる。
近作では大学の新入生がただ遊んでるだけという驚愕の内容『エブリバディ・ウォンツ・サム!』がある。ああ、まだソフト化されていないようですが、『俺たちポップスター』は恐らく今年最強のバカ映画。
これらに出ているバカたちは最高。しかしこのバカを堪能するためには自分のアンテナを張っていないといけない。ぼうっと観ているとバカの洪水に流されてしまう。日本のように親切な「ツッコミという防波堤」がないからである。
(まあ本当に好きなのはコメディ棚にないコメディ、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ペイン&ゲイン-史上最低の一攫千金』、イーライ・ロスの『ノック・ノック』だったりする)
で、遅ればせながらコーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキ』(98)、これ、大好きだ。
通称「デュード」と名乗る主人公のリボウスキはある晩、暴漢の襲撃を受け、カーペットにシッコされる。
彼らは大金持ちのビッグ・リボウスキと勘違いしていて、ビッグの嫁さんの借金を取り立てに来た。
翌日、デュードは「敷き物をダメにされた」とビッグの家に抗議に行くのだが追い返される(この後彼はなにかにつけて「敷き物が~」「敷き物が~」と繰り返している)。
その後ビッグの妻が誘拐され、彼はデュードに身代金の引渡し役を頼むことになる。
主人公デュードは無職の無精者(ファッションセンスが最高)だが、彼が一番バカかというとそうではなく、更なるバカがうじゃうじゃ登場する。というか、デュードが人間的には一番「まとも」なんである。
特にベトナム帰りのデブ・ウォルターのバカっぷりがすごい。こいつがいらんことをするため、デュードはどんどん窮地に陥っていく。
いちいちコメディのギャグを拾っていくのも無粋なんだがひとつだけ、ラスト近くで死んでしまった友人の遺灰を受け取るところが最高。
壷が高くて買えない。しょーがないからコーヒーショップの缶に入れてそれを引き取り(ぶはは)、盛大に撒くのだが逆風の海風が吹いてデュードは全身灰かぶり、という不謹慎なギャグに爆笑した。
この映画のアクセントはボーリング。デュードたちは怠け者でバカだったりするが、ボーリングだけはストイックに真面目なのだ。そしてボーリングをデフォルメした世にもバカバカしい「受精シーン」は必見。
音楽の使い方もかっこいい。音楽に目配せできる監督の作品はだいたいとんがっている。
恐らくユダヤ的にはいろいろな含みがあるのだろうけど、それが一切わからなくても面白い。なぜなら、パーフェクトなバカ映画だからである。
コーエン兄弟が得意とする、「勘違いが勘違いを呼んで事態がますますひどくなる犯罪劇」をコメディに仕上げたものだが、寅さんにも森繁先生にも興味がない自分にとっては、年末に観る映画としてはなかなかハートウォームであった。
バカ映画をなめてはいけない。なぜなら邦画においてこれらに匹敵する「バカ映画」を何一つ思いつかないから。北野武も松本人志も大惨敗であった。
キャストを厳選し、頭を回転させて最高のくだらないギャグをひねり出すのが「バカ映画」なのであって、そう考えると日本ではほぼ無理なんだろう。
真面目な話、バカ映画は心の滋養である。
『キャリー』(76)を観ていま思うことは、いじめの最終形態として「バケツいっぱいの豚の血をぶっかけられて血まみれにされ、その様子を大笑いされる@プロムナイト」というシーンが、一番エグいということ。
そこでキャリーの超能力が爆発して、会場にいた者たちに襲いかかるのだが、「ホースで放水」というのがやられたことに対しては、ちょっと手ぬるいなあと思う。実際には女優の一人が水圧で鼓膜が破れたという事故があったというけど、それはあくまでも裏話。
このシーンは画面が二分割になっているが、監督のブライアン・デ・パルマいわく「あれは緊張感がなくなって失敗だった」と振り返る。そこが一番有名なんだけどな。ははは。
ただ、血まみれで仁王立ちになりながらも目を見開き、制御不能のパワーを放ち続けるキャリーはカッコいい。どれくらいかというと、昔あったホラーマンガ専門出版社「ひばり書房」のカバーと同じくらいのカッコよさである。
クロエ・グレース・モレッツ主演のリメイク版(2013)もある。
キャリー役がクロエちゃんなので、初代の姐さんに比べてかわいさは格段にアップ。なにせ初代のシシー・スペイセク姐さんは当時25才だったらしい。
演じるのは17才、と。
かなり忠実なリメイクで、「生理を知らない」キャリーにいきなり初潮が始まって、シャワー室で泣きながら同級生に助けを乞うというシーンもちゃんと再現。
同級生たちは嘲笑しながらキャリーにナプキンを投げつける。リメイクではこの騒動をスマホで撮影し、ネットにアップするという、実に現代的ないじめが加えられた。
血まみれにされたクロエ・キャリーも同じように念動力を放つが、オリジナルの自己制御不能パワーではなく、「狙った獲物は逃がさない」と、標的を次々にぶち殺していく。さすが元ヒットガールである。
仕掛け人のカップルも派手に成敗。なぜか評価が低いけど、なかなかいいリメイクだと思うのだが。
虐げられた者がリベンジして降らせる血の雨はいつの時代も最高。
そして両作品に共通しているのは「宗教キチガイの痛いお母さんを持つと子供がたいへん」ということだ。
映画のことばっかり書いていますが、本を読むより映画を観るスピードのほうが圧倒的に早いのだからしょうがない。
ちなみにこのブログは自分からの「おすそわけ」。こんなのありますよ、ということなのだが、まあ、知ってても知らなくてもどうでもいいようなことばっかりだな。閑話休題。
で、同じテーマで『キャリー』より好きな作品がある。『デビルスピーク』(81)だ!
陸軍士官学校に通う両親のいない少年、クーパースミスは成績優秀なのだが、同級生や教師からもバカにされている。「いじめ」というよりはコケにされている、というニュアンス。時には屈辱的ないじめも受ける。これが毎日。逃げ場のない青春。
ある日彼は悪魔復活のマニュアル本を入手し、当時のコンピューターを駆使して、その方法を解読しようと苦戦する。
屈辱的な日々は続く。気にかけてくれるのはマイノリティである黒人の同級生と、一見こわもての専属コックだけ。
コックから体の弱い子犬を譲り受け、犬が彼の唯一の友となる。のだが、いじめ連中たちが面白半分に子犬を殺してしまう。そしてクーパースミスの怒りが爆発!観てるほうの怒りも爆発!
クーパースミスのリクエストに応えて復活した悪魔は、彼に憑依する。
クーパーの顔に狂気が宿り、髪が総毛立ち(若ハゲ全開!)、魔剣を手にして宙に浮かぶ。
そこからは豪快な首チョンパ大会!胸がすくとはこういうことだ!がんばれぼくらのクーパースミス!
学校で飼っている黒豚軍団も手先となって「ブーブー!(おれらもがんばるよ!)」とクーパーを援護し、首チョンパを免れた者は豚さんに食われるのである。世の中には立場が逆になることもある。
(あ、ちなみに悪魔の本をパクろうとした学校の美人秘書も、バスルームで全裸のまま黒豚さんたちに食われる。パクリとかはしちゃいかん、という教育的指導だ)
「クーパースミスは復活する」と悪魔から太鼓判を押す声が流れ、映画は終わる。いじめられっ子であった彼は最高のケツもちを得た。これは、ハッピーエンドである。
とにかくいじめはダメだ。昨今のいじめがエスカレートしているのも、「因果応報」という話を知らなすぎるからじゃないか?という気もする。
民放も『キャリー』や『デビルスピーク』のようないい映画を放映しなくなったから、ガキどもにトラウマが直撃する機会がなくなってしまったのである。
そしていじめられている子達は、悪魔でもなんでもいいじゃない、何か生きる糧を掴むことだ。
自殺する決意ができるんだったら、学校の窓ガラスでも派手にぶっ壊して、卒業までしれっと居座ってやればいい(死んじゃったら教育者たちはどーせ「いじめはなかった」とか言うんだから)。
それなら誰も傷つかないし、「あいつ狂ってる超やべえ」と誰も近づかなくなる。超クールだ。
『真っ白なものは汚したくなる』とは欅坂46のファーストアルバムにして歴史的名盤なのだが(結局タイプBも買ってしまった)、いまやレア・アイテムであるGGアリンのドキュメンタリー『全身ハードコア』(2008)を観ていたら、なぜかこの言葉を思い出してしまった。
GGアリンとはパンクロッカーで、手がつけられない過激なライブが有名で、36才でドラッグで死んだひと。
手がつけられないとはそのまま「触れたくない」ということであって、全裸で血まみれは当たり前、ステージで脱糞しそれを体に塗りたくって客席に突っ込んで行く、という狂気の沙汰を繰り広げていた。
しかも中にはその状態のGGをどつきにかかるツワモノもいて、やっぱりアメリカはすごいなあと思う。
流血にしても剃刀で切り裂くとかじゃなくて、あの硬いマイクロフォンで自分の頭をぶん殴る。
彼の中では流血がないとライブとして完成しないようで、時々イライラしながらマイクで自分を殴っている。これを毎回繰り返しているのだから、後遺症がないわけがないと思う(でも、それが出る前に死んだから、まあよかったんではないか)。
血と糞が混ざるのであるからやはり「敗血症になる・・・」なんてことも考えてしまうけど、実際そういうことで何回も入院しているらしい。
日本でも「財団呆人じゃがたら」の江戸あけみや「ザ・スターリン」の遠藤みちろう(当時の表記による)なんかも近いパフォーマンスをやっていたが、段々それを求める客に嫌気が指して、音楽のみで勝負するようになる。でもGGアリン、根本が違う。映画でこんなことを言っている。
「俺はパフォーマンスって言葉が大嫌いだ。全部リアルだ。俺の生き様なんだ」
キラキラネームという言葉があるけど、GGの本名は「ジーザス・クライスト・アリン」という究極のキラキラで、かなりの変人だったらしい父親が名付けた(後に母親がまともな名前に改名)。
その父親の影響をもろに受けた少年アリンはどんどん屈折してあらゆるものを憎み、スキンヘッドにメタボ体型のパンクロッカーとして完成されていく。酒とドラッグの放蕩生活でたるたるになった裸を汚物まみれにして歌うのは、残念ながらイギー・ポップのようなグッド・ルッキンさがGGにはなかったから。
ついで彼の股間についてる一物はかなり極小。普通なら女性に超バカにされそうなものなんだけど、ライブでワイルドに振る舞うことによってグルーピーまで出来てしまうという、逆転の発想。
「ライブをやっていなければ大量殺人者になっていた」と明言し、世の中のあらゆるものを分け隔てなく憎む歌「どうせ死ぬときゃみんな死ぬ(バイト・ユア・スカム)」がスタンダード。
ファン代表の友達いなさそうなオタ青年はこう言う。
「GGアリンのライブはオバケ屋敷みたいで最高に笑える。GGが暴れ始めたら俺は背後に立つんだ」
演者と観客の垣根をぶっ壊すライブは、寺山修司が見たら感動するんじゃないか、という気もする。
GGがテレビ番組に登場した映像も収録されていてこれがなかなか傑作。
司会が「なぜあなたはステージで排泄行為をするのか?」との質問には「俺の体はロックンロールの神殿だ。信者には体液や血液を与えるべきだ」と答える。自分こそがロックンロールだ、という信念には揺るぎがないのである。
一方で(GGに嫌気が指して)バンドを辞めた若いギタリストはこう言う。
「アリンは宗教でも始めればよかったのに、あいつはライブをやるだけだ。ステージで自分のクソを食ってる」
この兄ちゃんは「顔を殴るくらい俺でも出来る」と、自分で自分を殴り始めるんだけど、ついカメラの前で「血、出てる?」と言ってしまう普通の人。ここは映画のオチに使われた。はっはっはっ。
ドラマーも全裸でステージに登場する。「服着てると擦れてヒリヒリするんだよ」。こいつも相当イカれてる。
ベースは実の兄、マール・アリン。この人も筆みたいな鼻ヒゲでスキンヘッドにタトゥーだらけという特異なルックスだが、メンバーではまともな部類。「弟のタトゥーは酔っぱらいに適当に彫らせたやつだが(ほぼトイレの落書きレベル)、俺は金を払ってる」と言うくらいまともだ。
GGは「ステージで死んでやる」と、公開自殺宣言も有名なのだが(実現ならず)この兄貴は「あいつがそうしたいんなら仕方がない」と、弟の自殺願望すらも肯定する。
ちらほらとGGをリスペクトする発言も多いし、きっと本気で弟のことを世界最高のロッカーだと思ってる。
(特典インタビューでは、彼への愛情を思い切りぶちまけている)
この薄汚いドキュメンタリーから浮かんでくるものは、実は兄弟愛だったりする。
バンドの名前は「マーダー・ジャンキーズ」。バッカみたい。
最後は葬儀。GGの死体が映る。発見されたときのままの、泥まみれの姿で。
恐らく兄貴マールの「汚れて生きてきたんだから、最後も同じように見送ってやろうじゃないか。こいつはGGアリンなんだぜ?」という粋な計らいだと思われる。
「普通のロックスターみたいにドラッグで死んだ」とアナウンスされるけど、この茶化しは監督から主演へ、ねぎらいの言葉なのだろう。
GGアリンが素でインタビューを受けるときは必ずサングラス着用で、フードまで被っていたりするし、弾き語りでカントリーも歌う(これがいいんだ)。確実にシャイな面も持っていた人だと思う。
「俺は完全に自由なんだ」「ロックンロールに制限なんかない」と繰り返し発言し、それを極端な形で最後まで貫いたわけで、殿堂入りはとりあえず置いておいて、これはこれでアリなんだろう。
そういう風にしか生きられなかったから不幸だったのか、そうやって生きられたから幸福だったのか。
どっちでもいいけれど、確実に自分のコンパスはあったということだ。
本作は50分。原題は『HATED』。ファストに生きた人にはこれぐらいの長さがちょうどいい。
初見は渋谷のシアターNで、ザ・クランプスの精神病院ライブとの二本立て上映『TRASH ROCKIN PICTURE SHOW』(よくやったな、これ)であったが、シアターNもクランプスも、もうないのだった。
ところで欅ちゃんの『エキセントリック』の歌詞がGGのことを指してるみたいで、非常に困るのであった。
「理解されないほうがよっぽど楽だと思ったんだ」「他人(ひと)の目気にしない 愛なんて縁を切る」
「はみ出してしまおう 自由なんてそんなもの」