「顔が描けない漫画家」という人々も確実にいらっしゃって、たとえば走り屋の話を描いている作家さんなどクルマ以外はどうでもいいらしく、人間の描写などうっちゃりっぱなしで数十年。それでもニーズに応え続けているから大したものだが(いつも小汗をかいていて頬がポッとなってる以外は感情表現がまったくないですよ先生!)。
「亀有」の先生も、アレ、もはや本人は描いてないんじゃないスかね。出せば売れる単行本と二次使用の権利で、みんな大もうけ。確かに誰も困らない。
『北斗の拳』も通して読んだことがあるが、ラオウ編で終われば美しいものを、「・・・ああ、大変だあ」と分かったふりをしてみたり。
そういった業界の内幕をマンガによって告発したのが土田世紀の『編集王』。これを大手週刊誌が完結まで載せ続けたのはかなりの英断だと思う。
「あしたのジョー」に感動してボクサーとなった主人公の桃井環八は、体を痛めすぎ現役を引退。リングはどこにでもあると人気青年週刊誌にバイトとして雇われるが、そこで見たのは名前だけの流れ作業で作品をつくるアル中の大御所、数字しか見ない編集長、作家性などまるで無視される「とりかえのきく」新人、売るためだけのエロマンガ作りを仕切る残業嫌いの編集者、年金生活者のような扱いで文芸誌を発行し続けるベテランなど。
そこにピュアなカンパチは一直線の怒りでぶち当たっていく。もちろんそれで好転する場合もあるが、「雑誌は道楽じゃねえ」「作家との友情ごっこに給料は払えねえ」「無担保の人間に大金は貸せねえよ、商業誌ってのは」と、企業側のドライな理論に破られるパターンが多い。
たしかに読みながらも共感するのは「鬼の編集デスク」の方だったりして、性善説なカンパチたちは、ややもすると青臭い。
管理側としては売り上げを伸ばすため、人気のない作家はバサバサと切らざるを得ない。作中でも指摘されているように、「載せられるマンガの本数」ってのは決められている。この選択をシビアにできない者はトップに立つ資格はないのかも知れない。
登場人物の一人は「マンガは恐ろしい」と、涙を見せる。
『がきデカ』連載時の山上たつひこ氏は、「後半は自分で全然面白いと思わなかった。描くのが辛かった」と言っていたけど、読み手としてはそんなことはなかったわけで、編集部対作家の判断はどちらが正しかったのか、歴史が証明したんだなあという事例。
ただし、鬼デスクや、梶原一騎をイメージさせる大御所マンガ家、売らんかなのエロしか興味がない編集者など、彼らはさまざまな轍を踏んだあげく、そのような人間になったのだということをサイドストーリーで丁寧に描いている。
つまり、マンガ・モノ作りが嫌いな人間など一人も登場しない。悪役としても人間くさい魅力がある。
最終的に、対立していた編集部員たちが一丸となって、ある巨大な敵に向かっていく。この辺は素直に感動してしまう流れなわけで、ただの暴露モノで終わらせず、立派なエンタメになっている。
ドライに見るとこの作品自体がキャラの立ちかた、ストーリーの布石や展開など、商業誌連載としての良いサンプルにもなっている。
なんだかんだといっても肝は土田世紀氏の画力で、抜群にうまい顔の表情とか、マンガとしての完成度の高さだと思う。きっと本人も「ジョー」にはやられた口で、マンガ家としてこの作品を世に問い、ひとつおとしまえをつけたかったんじゃなかろうか。
ひょんなところから雑誌「アックス」(青林工藝舎)を15冊入荷できたので、ワンコーナー設置。vol68~82。
改めて読んでみると先代の「ガロ」以上に濃いというか、まとめて読むにはかなりしんどい。これは毎月マメに購入し、ひと月かけてじっくり読むのが正しいと思う。一ヶ月楽しめる月刊誌ってのは今、なかなかございませんよ。
自分は文学にまったく影響を受けていない、完全に雑誌文化で育った口。子供の頃一番好きだったのは「少年チャンピオン」で、他紙に比べてもかなりアクが強かった。がきデカ、ブラックジャック、魔太郎、エコエコ、マカロニほうれん荘とか(←これが一番好きだったんだけど、今読むと面白くもなんともないんですよね・・・すうさい堂でも回転するので、若者の捉え方はまた違うのかも知れないが。鴨川つばめは「ドラ猫ロック」まで追いかけたんだけど、これも今読むとねえ・・・ははは。残酷なことに)。
「サンデー」「マガジン」は当時の連載としてはちょっと薄口のような気がして。むしろいい年になってから読んだ往年の名作郡は、腹にズドンと来た。
ジャンプに関しては「すすめパイレーツ」と「北斗の拳」の最初くらい。「東大一直線」ってのもあったか。その直後に鳥山明という大ヒットメーカーがブレイクするわけだが、「Drスランプ」がまったくダメだったので、当然「ドラゴンボール」には一ページも手をつけていない。
その次がB5サイズの80年代「宝島」。ミーハーで最先端でなおかつ下世話。「トンガリキッズ」になりたかった中坊。くわつはつはつはつ。
パンクの特集を初めて読んだのもこの雑誌で、RCサクセションはするっと行けたのに、クラッシュやジョニー・ロットンの佇まいにはビビッた。それはカッコいいと思ったってことなんだけど、この世界は自分みたいなヘタレが手を出すものではないと、実はかなり抵抗があった。
まあしかし、どんどん自閉的になるにつれ、日本のアングラパンク込みでしっかりはまり、レコードが増えるたびにヤバい世界に入り込んでいくような、高揚感と背徳感。モノをコレクトする時の隠微な快感を一番最初に覚えた。
カルトムービー/ライブハウス/ニューウェーブなマンガ郡。宝島レビューで蛭子能収のマンガをプッシュしていたので買ってみた。このエビスさんて人(ひるこのうしゅう、だと思ってた)、完全に狂ってると思った。ビビった。で、何回も読み返した。そのタイトルは『私は何も考えない』。
毎月掲載される「都市生活はこんなに楽しいぜトンガリキッズ!」と煽動する記事が大好きだったんだが、自分といえば完全にどんづまり高校生だった。お陰さまで馬鹿のくせに無駄な雑学はやたら覚えた。
っていうかさ、ガキの時分でこんなマニアックな趣味を共有できる友達なんてそうそういなかったんじゃないか?実は当時の少年少女宝島読者の三分の一くらいは、どんづまりキッズだったんじゃないかと、今になって思う。
宝島が仕掛けた、パンクスの大群が真夏の新宿アルタ前をジャックしたライブイベントにも行った(17才の俺)。好きよ、キャプテン!
お次が「ロッキング・オン」で、多分宝島があまりにも享楽的だったもんで、馬鹿なりにバランスを取ったんじゃないかと思う。とにかく投稿記事が暗い。もう、社会不適合者の自分がいかに音楽によって救われたか、という内容を鬱々と延々。で、まあ、当然はまりまして。でもディスクレビューの面白さは随一で、毎月隅から隅まで読んでましてね。ここでかなり屁理屈というか、物事を斜めに見ることを覚えた(宝島はほんとにストレートだったね)。
質の悪い紙を読者の呪いとトラウマで埋め尽くしていたかつての雑誌は、いまや大成功してメインストリームになった。
何事も生き残ることが重要なので、それはそれでいいと思う。マジでマジで。別にひがんでないんだからねっ。
あとはやっぱり青林堂の「ガロ」で、これでマンガに対する概念がひっくりかえってさらにサブカルにずるずると。「ドール」っていうパンク専門誌もあって、これでさらにアングラ音楽へずるずると(編集長の森脇さんが以前はうちのリピーターさんだったりする。この雑誌は本当に硬派だった)。
「フールズメイト」なるインディーズ/ニューウェーブ雑誌もちょこちょこと。こちらは基本的にお耽美だったので、今のビジュアル系専門誌になる流れも、分からなくはない。
そんで定番の「クイックジャパン」と。最近はお笑いプッシュ誌で、いま一番勢いのあるサブカルがお笑いってことになるのだろうか。しかしインタビューのディープさは変わっていないような気もする。繰り返すけど、生き残るのが大事。
考えてみればここ何年も読んでいる雑誌がない。
っていうか感性が一周して先祖がえりしているので、「大人っぽい」ことを言う気がまったくない。
ずっとピストルズとかスターリンとか言って死ぬんだ、俺は。もう馬鹿でいいです。
もりもと崇『難波鉦異本』(全3巻/エンターブレイン)読了。
「大坂」の遊郭が舞台のエロチック人情コメディ。新しいジャンルだと思う。
女郎さんにも位があって、最高位が「太夫」、次に「天神」となるのだが、このお話の主人公は天神であるところの「和泉」アネサン。さらに語り部として「かむろ(変換不可)」の、ささらが登場。
かむろとは幼い頃に遊郭に売られ、女郎のお付きをしながらお座敷芸を仕込まれ、いずれ女としての年齢に達すると「商品として」扱われるという、ジャニーズのような運命を背負った女子児童。
今ならとんでもない話だが、当時は普通のことだったわけで、もちろん年季が明けるまで娑婆に出ることは許されない。
悲惨といえばそうなんだけど、ここに登場する和泉やささらは「それはそれ」として、アナーキーにパワフルに生きている。遊女たちのマネージャーであるところの「遺り手婆あ」や客たちとの「経済感覚」や「情」の関係性も面白い。井原西鶴なんか、シンプルに単なるスケベじじいとして描かれている。
確かにお女郎さんたちは事情により体を売らなければならない身の上なのだが、太夫や天神くらいになると、いまの風俗のように「エリカちゃんお願い!」みたいな感じにさくさくはいかず、少なくとも3回は顔見せをし(しかも女郎は上座に座り、立てひざで客を見下ろしている)、遣り手と相談したのち、オーケーが出ればいよいよコトがいたせる、というまどろっこしいシステムだったらしい。
彼女らの相手としてふさわしいかどうかと、客たちは品位や教養を見られるのであって、そういった意味では高級遊女たちの方が人間として格が上、ということになるのだろうか。
かなりえげつないエロ描写があるこの作品だが、なんとめでたく手塚治虫文化賞新生賞を受賞。
客が「一物」を「忘れて」帰ったり、売掛金の踏み倒し代取立てのために和泉が遊郭で篭城するなんてぶっ飛んだ回もあるが、この作品の裏テーマは「ハンパな好意はひとを傷つける」で、「それをやってしまうのは一番残酷なことだ」と、繰り返し訴えているような気がする。
最高位まで上り詰めても堕ちるときはあっという間、資本はからだひとつであり生きてここから出るにはカネにも汚くなくてはならない、というクールな認識を持つ和泉は、同情や淡い恋心をすべてぶった切る。
「年季明けまで待たせるつもりやったんか?」と。
「カゴかき風情が天神女郎を抱けると本気でお思いか?」
「だいたいハダカ一貫て遊女(クロート)くどく文句やないで。カンちがいすんなや」
「男でカネないとなァ」「便所のウンコ以下やど」などのセリフがビシビシ決まる天神・和泉は今の風俗嬢も見習うべき姿とちゃいますやろか。
そうじゃない子は堕ちていく可能性が高いし、いつまでたっても「年季が明けない」。
遊ぶ方も金がとりもつ縁、ってことをちゃんと認識しないと。自分の稼ぎはどう使おうと自由だけど、「楽しかった時間」ってのはキチンと「等価交換」されてるんだな。資本主義社会だから。
手にとって触れられてもあの方たちは水面に映った月。実体がない部分で楽しませているんだから。
それがプロってことで、遊郭からイメクラに時代が変わっても、本質はまったく同じだと思う。
孤独は癒してくれるかも知れないが、絶対に救ってはくれない。いちいちそんなことをしていたらあの世界に居られるわけがないんだから。
嬢たちも傷ついてる人が多いと聞くし、それはもう男どもが返す刀でやられても仕方がないって話ではあるが。
ただ、傷は「勲章」だと思う。
あまりのヒマさにカネコアツシ『バンビ』全6巻読了(番外編を入れると全7巻)。
知る人ぞ知る漫画家ではあるのだが、この人の描く線はまったく日本人ぽくなく、ポップアートのリキテンシュタイン、というよりは、ガレージパンクのジャケのイラストのような雰囲気。
この絵が筆ペンで描かれているということがまず驚愕。
主人公のバンビは健康とクマのペーさんを愛するピンクの髪の美少女だが、人を殺すことにコンマもためらわない殺人マシーン。謎の子供を連れて逃避行しているのだが、その子供を奪回し、バンビを殺せば5億円という報奨金がかけられており、ヤクザ・殺し屋どもが彼女らをつけ狙う。
まあ、片っ端からぶっ殺されちゃうわけですが、この作品トータルで何十人殺されてるんだろう?キュートでポップな大殺戮!
バンビを売ったり助けたりするチンピラ・タナハシや、実は武器商人の時計屋老夫婦、孤島に住む元テロリストのジジイ3兄弟など、サイドキャラも立ちまくり。
さらに裏社会を牛耳るポップスター・「ギャバ・キング」は畸形化したエルヴィスだし、その側近「チャーリー」は絶対、80年代NMオペラの怪人「クラウス・ノミ」がモデルでしょう。http://www.youtube.com/watch?feature=iv&src_vid=E9-4vnlYqa0&annotation_id=annotation_942735&v=iNahvGXVWl0
クマのペーさんはもろにグレイトフル・デッドのアレだし、「悪魔のいけにえ」がモチーフの回や、どことなく「デスレース2000」ようなテイストが散りばめられているので、ジャンク文化の知識があると楽しさ倍増。
極めつけは後半に登場する殺し屋3姉妹で、フライ(ハエ)・ローチ(ゴキブリ)・マウス(ネズミ)と呼ばれており、仲は最悪で、互いが幼少時に方耳・片目・片腕を潰しあっていて、それぞれの殺しの武器もナイフ・銃・毒ガスとバラエティに富んでいる。キャー!こんなん大好き!
タランティーノの影響下にあるのも明白で、日本人は彼とかなり相性がいいのだろうね。
漫画ゴラクというオヤジ雑誌に連載されていたため知名度は低いが、岡田ユキオの『モーテル』なんかも確実に「和製タラ文化」のひとつ。好き物にはお勧め。すうさい堂に売ってるらしい。
これはロックだなあと思う条件のひとつに、どんな過激な表現でもげらげら笑ってしまう、というのはあると思う。つまりブラックユーモアのセンスを持っているか否か、ってこと。
ちなみにこの作品中でもっとも痺れたセリフ。
「歳をとるってのは面白いぞ」「お前ら若いもんが皆マヌケに見えてくる」「だから誰の言うことも聞く気がなくなる」「どんどん自由になっていくんだ」「面白くてたまらん」
「夢だ理想だって騒ぐから」「どいつもこいつもワケ判んなくなっちゃうんじゃねぇかなあ?」
「犬猫みたく『ただ生きてる』ってだけでいいじゃねぇか・・・・・?」
なんだよ、じゃあ自分なんか正しく劣化してるってことじゃん。欲しいものもやりたいこともとりあえず何もねえさ。「捨てるべきもの」はわかってるからな。酒のんで寝ちゃったらもう一緒だよ。週5日くらいは酔っ払って寝ちゃうからさ。アルコール吸収する才能はあるからね~。おおこれはロックぢゃねえか?酒飲み仲間がいるってことは何よりも精神安定剤だ。
この作品、映画化されるという話だったが、どうも頓挫したっぽい。このデタラメさは邦画じゃ無理かもしれない。そんな時「マンガ表現の自由さ」というものを感じるのである。
『突飛な芸人伝(吉川潮・著/新潮文庫)』を読んでいて、指パッチンとか、レッドスネークカモンとか、坂田利夫師匠においては存在そのものとか、持ち芸が生き様になっているという点において、偉大なるパンクバンド「ラモーンズ」と勝手にリンクした。
チープだマンネリと言われようがクオリティを下げずに、一貫して同じことを続けるというのは、実は誠実な態度である。
最古参のジョーイとジョニーは、死ぬまでルックスすら変わらなかった(変わることを拒否した)。
「表現のラモーンズ化」が起き易い場として、日本のコミック界が挙げられると思う。
最右翼はやはり谷岡ヤスジだろうか。彼の作品はもうマンガにおけるスリーコードみたいなもんで、自らを禁じ手でがんじがらめにしつつも最期まで疾走した。ヤスジ・ラモーンと呼びたい。
『やる気まんまん』の横山まさみちも然り。単行本化されたもので初めてちゃんと読んでみたのだが、実際の話、本当にしょーもない。主人公(人間)と男性器(オットセイ)のメンタルが完全に分離しており、「大将!どうしましょう?」「オットセイよ!堪えるのだ!」なんて会話しとるのである。さらに女性器は「巻貝」として表現されるので、なんか海洋生物がいっぱい出てくるなーとは思うのだが、性交している風にはあんまり見えないっていう。ちなみに手足の指を「出動」させる際にはそれらが「コットセイ」「足(ソク)トセイ」となる(笑っちゃったよ・・・)。しかしこの設定を亡くなる直前まで27年間(!)も続けたのは偉業としか言いようがない。マサミチ・ラモーン。
現役だと、地味な絵で2ページというお約束を守りつつも、ふいに心の機微をついて笑わせてくれる玄人・中崎タツヤ。年代別にまとめた『じみへん』のワイド版がおすすめ。タツヤ・ラモーン。
これまた地味なんだけど、哀愁の中年オヤジを描かせると抜群な「文芸作家」いましろたかし。『ラララ劇場』がもう一回読みたい。タカシ・ラモーン。
「漫画界の畳職人」の異名を取る東陽片岡。日雇い労働者・熟女・B級グルメの「三大噺」を守りつつ、青林堂から小学館まで、「まったく同じ内容」で描き続ける一途さ。どの本も同じだがどれも安心して楽しく読める。ただし、本物の日雇いオヤジは読まないと思う。トーヨー・ラモーン。
漫 画太郎はちょっとハードコアなんだよな~。ラモーンズというより「エクスプロイテッド」って感じ?
ネタがオナニー・ホモ・後背位の三要素で構成されている気がする、ある意味大御所・とがしやすたか。スカム感は「カオスUK 」と言ったら褒めすぎか?
後期ラモーンズのライブはさらに曲のスピードが早くなったと聞くが、最近の作品キレ具合や、『人生画力対決』でいよいよ大御所にケンカを売り始めた西原理恵子女史もファミリーに。リエコ・ラモーン。
(本人結構「熟した美人」て感じなんだけど、マンガで登場する時はやや年齢設定高めな「おばちゃんキャラ」を用いており、「まだまだ稼がせて頂きます」というプロ根性を感じる。この路線で長く続けるには実年齢よりもキャラ年齢を上にした方が尺が稼げるってことじゃないかと。多分、恐ろしく計算ができる人だ)
徹底した「あの絵」と「銭がらみの人間関係」のみで作品を大ヒットさせて引退=癌で亡くなった青木雄二という人もいた。しかも彼には後継者(フォロワー)がいて、いまだにその世界観が継続され読みつがれている。
ユージ・ラモーン。
まだまだたくさんいらっしゃるとは思うのだが、あえてマイナー系は外してみた。
「ラモーン道」は王道ゆえ、メジャーで勝負するのが筋である。