もりもと崇『難波鉦異本』(全3巻/エンターブレイン)読了。
「大坂」の遊郭が舞台のエロチック人情コメディ。新しいジャンルだと思う。
女郎さんにも位があって、最高位が「太夫」、次に「天神」となるのだが、このお話の主人公は天神であるところの「和泉」アネサン。さらに語り部として「かむろ(変換不可)」の、ささらが登場。
かむろとは幼い頃に遊郭に売られ、女郎のお付きをしながらお座敷芸を仕込まれ、いずれ女としての年齢に達すると「商品として」扱われるという、ジャニーズのような運命を背負った女子児童。
今ならとんでもない話だが、当時は普通のことだったわけで、もちろん年季が明けるまで娑婆に出ることは許されない。
悲惨といえばそうなんだけど、ここに登場する和泉やささらは「それはそれ」として、アナーキーにパワフルに生きている。遊女たちのマネージャーであるところの「遺り手婆あ」や客たちとの「経済感覚」や「情」の関係性も面白い。井原西鶴なんか、シンプルに単なるスケベじじいとして描かれている。
確かにお女郎さんたちは事情により体を売らなければならない身の上なのだが、太夫や天神くらいになると、いまの風俗のように「エリカちゃんお願い!」みたいな感じにさくさくはいかず、少なくとも3回は顔見せをし(しかも女郎は上座に座り、立てひざで客を見下ろしている)、遣り手と相談したのち、オーケーが出ればいよいよコトがいたせる、というまどろっこしいシステムだったらしい。
彼女らの相手としてふさわしいかどうかと、客たちは品位や教養を見られるのであって、そういった意味では高級遊女たちの方が人間として格が上、ということになるのだろうか。
かなりえげつないエロ描写があるこの作品だが、なんとめでたく手塚治虫文化賞新生賞を受賞。
客が「一物」を「忘れて」帰ったり、売掛金の踏み倒し代取立てのために和泉が遊郭で篭城するなんてぶっ飛んだ回もあるが、この作品の裏テーマは「ハンパな好意はひとを傷つける」で、「それをやってしまうのは一番残酷なことだ」と、繰り返し訴えているような気がする。
最高位まで上り詰めても堕ちるときはあっという間、資本はからだひとつであり生きてここから出るにはカネにも汚くなくてはならない、というクールな認識を持つ和泉は、同情や淡い恋心をすべてぶった切る。
「年季明けまで待たせるつもりやったんか?」と。
「カゴかき風情が天神女郎を抱けると本気でお思いか?」
「だいたいハダカ一貫て遊女(クロート)くどく文句やないで。カンちがいすんなや」
「男でカネないとなァ」「便所のウンコ以下やど」などのセリフがビシビシ決まる天神・和泉は今の風俗嬢も見習うべき姿とちゃいますやろか。
そうじゃない子は堕ちていく可能性が高いし、いつまでたっても「年季が明けない」。
遊ぶ方も金がとりもつ縁、ってことをちゃんと認識しないと。自分の稼ぎはどう使おうと自由だけど、「楽しかった時間」ってのはキチンと「等価交換」されてるんだな。資本主義社会だから。
手にとって触れられてもあの方たちは水面に映った月。実体がない部分で楽しませているんだから。
それがプロってことで、遊郭からイメクラに時代が変わっても、本質はまったく同じだと思う。
孤独は癒してくれるかも知れないが、絶対に救ってはくれない。いちいちそんなことをしていたらあの世界に居られるわけがないんだから。
嬢たちも傷ついてる人が多いと聞くし、それはもう男どもが返す刀でやられても仕方がないって話ではあるが。
ただ、傷は「勲章」だと思う。
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