語らない、というのは実はすごいことで、「語っている」時より「語ってない」時の方に説得力がなければいけないのであって、やっぱりタモリ氏は偉大なのである。
ビートたけしがコメントや本でさんざん語って、若い衆をまとめて親分的存在だったりとかも込み込みでのカリスマであるのに対し(軍団の中で最狂メンバーは「つまみ枝豆」らしい)、タモさんは仕事が終わればスーッと日常に消えていくような静かさがある。「カリスマ性?必要ないっしょー?」とグラスをカラン。
山下洋輔が、「テレビのタモリは必殺技が使えない格闘家のようなもの。それでも勝負できるところがすごい」と語っていた。
毎日「お友達を紹介する」仕事をしているのに、自分のプライベートな交友関係をおおっぴらにはしない。
親しげによってくる若手ラッパーあたりなんぞ実は、失明している右目で相手しているようなもんなんじゃないかと思う。
「芸人は破滅すべし」的な美学がまだまだまかり通っているのに、タモリ氏は勤め人のように淡々とテレビに出る。
出演する番組をほとんどヒットさせ、そしてきれいさっぱり忘れさせ、誰でも知っている有名人なのに、この人の思想信条経歴など誰も知らないし、とにかく本人が語らない。
やはりジャズの美学に生きている人である。どジャンキーのくせにそれをまったく感じさせないメロウなボーカルとペットを聴かせる、チェット・ベイカーにちょっと被ると言ったら言い過ぎか。
実は82年のタモリ主演作『キッドナップ・ブルース』を観てきたのである(@例によって阿佐ヶ谷ラピュタ)。
売れなくなったジャズミュージシャンが、近所の鍵っ子の女の子と一緒に二人で旅をする(傍目に見れば誘拐)
というだけの話。
監督は写真家の浅井慎平で、結構な長期ロケ。当時も売れっ子だった彼の身柄をよくここまで押さえられたもんだと思う。
映画を観れば分かるが、ヒットさせようという気なんかさらさらない、ロードムービーであります。
タモリは女の子を連れて旅をしているからといって何がどうなるわけでもなく(むしろ指名手配される)、もちろん女の子も何か事態が好転するわけでもない。
子供をあまり子供扱いしないタモリと、甘えるそぶりを見せない子供の関係が淡々と続いていくのみ。
ふたりはどこまで行っても孤独なのだけど、それでも一緒にいる。
泣かせるような落しどころはまったくないんだけど、思い返すとなぜか胸がかきむしられるような一本。
ゲスト的な出演者もたくさんいるのだが、特に野外に捨てられたピアノで超絶的なフリージャズを弾く山下洋輔と、「酒は、うまいよなあ」と、最高の笑顔を見せる川谷拓三は印象に残った。てか、やられた。
これが彼の本質です、とか言う気はさらさらないんだけど、「まあ、こんなのもありっしょ?」とタモリ一流のうつむき加減なダンディズムを感じられると思う。もちろんサングラス越しの。
ラストに流れるタモリ歌唱による『狂い咲きフライデイナイト(だと思った)』は、マジでカッコいいですよ。
この記事にトラックバックする