池袋新文芸座にて『まむしの兄弟/恐喝(「カツアゲ」と読みましょう)三億円』と『女番長(「スケバン」と読みましょう)ブルース/牝蜂の逆襲』鑑賞。
東映ピンキー&バイオレンスの巨匠、鈴木則文追悼上映。
「恐喝三億円(73年)」は、はみ出し者二人組が情にほだされ大活躍、というプロットが「ブルース・ブラザース」の元ネタなんじゃないかとの説もある(まむしの場合は「大殺戮」になるのだけど)。
菅原文太と川地民夫、すばらしくバカ。ちょっと違うタイプのバカふたり。
当たり屋をして慰謝料を求め、加害者である中国人の社長を恐喝に向かうまむしブラザース。実はこの社長は覚醒剤密売の大物。その家に住む流民の用心棒・松方弘樹にボコボコにされるが、彼が後半、駆け落ちした社長の娘と共に取引される覚醒剤・三億円分を奪おうとブラザースを誘う。
母親を探しに中国に渡るという松方に打たれ、「五円で売られたラーメンの兄ちゃん(松方)が三億のカツアゲや。おもろいやないか!」とこの計画に乗る。基本いいやつ。凶暴だけど。報酬は二分の一。
「三億の半分てなんぼや?(川瀬)」「アホかお前は。1500万やないか!(菅原)」。でも、バカである。
完成していない筋彫りの刺青が、はんぱ者である二人を象徴している。
『仁義なき戦い』はシリーズ化が進むに連れ、菅原文太演じる組長がやくざ社会の徒然に苦悩する様が描かれ、一作目のはじけっぷりからはどんどん遠のいていく。極道とはいえ管理職は大変だなあと思う。
このシリーズの菅原文太は、狂犬としてギラギラしていた最盛期である。
「牝蜂の逆襲(71年)」は池玲子主演のスケバンもの。東映はこの類の作品はすぐにシリーズ化します。
池姉さんをリーダーとするグループ・アテネ団は美人局や万引きや車泥棒などをして毎日楽しく暮らしていましたが、そこに現れるOBのズベ公・ジュン、池さんに惚れてる愚連隊のボス・次郎、彼が組織ごと盃を受けようとしている暴力団・秋元組、そこの客分である天知茂、出てくるだけで何をやっても面白い由利徹、セイガクのバイクチーム、などが絡む。
最大の見せ物は、バイクチームが「これからはカーセックスの時代じゃねえ、モーターバイクファックだ!」と、女子たちを裸でバイクに乗せ正常位で挿入しながらバイクを走らせイッたら負けよ、という世界でも類まれなるバカなシーンか。振動で果てるのでしょうか。
池とジュンがタイマン勝負をして、それに負けたジュンがチームを去ってゆくところにいきなりチームの一人がド演歌を歌いだして送る(どうやら本物の歌手)、というシーンは泣かせる。いや、泣いてないけど。
トップ屋として登場する山城新伍はギターウルフの故・ビリーみたいで、かなりトッポい。
劇中、やたらと「あたしたちは野良犬だよ!」というセリフが繰り返されるが、「牝蜂」って言葉はひとつも出てこない。どうでもいいんだけど。
ところでこの二作品にはやっぱり、粉ものを指で舐めて「こりゃあ上物だ」とやるシーンが出てきて笑ってしまった。
この手の役をやる俳優にとっては必須のシーンか?「あの人はシャブを舐めさせたら日本一」なんて評価もあったりして。
70年代の東映には必ず「汚い組長役」専門でやってる役者さんが出演していて、顔は刻まれたが名前がいまだに分からない。かわいそうなくらいおんなじ役作りである。
小松方正も出てたけど微妙に汚い大人な役が多い。こうした「カッコよさをまったく感じさせない役者魂」ってやつもある。プロフェッショナル、ということなのだろうけど。
鈴木則文監督の作品は娯楽性と反骨精神が両立していて、わかりづらいところまったくない、ってのはいい。
『修羅雪姫 復活之章(上下巻/小池書院)』読む。小池一夫×上村一夫。
『「週間プレイボーイ」掲載から30年以上を経て、ついにファン待望の初単行本として復活----!!』ということである。ちなみに現在すでに絶版。
死んだと思われていた鹿島雪は、お茶の水女子高で「スエーデン式体操」を伝授する体育教師として生きていた。
そこへ極右の集団が「やめろ と云うとンのじゃ~ッ(原文ママ)」と、脅しにかかる。神国日本に毛唐の習慣を持ち込むとは何事かッ、ということである。
そこでスエーデン式体操の素晴らしさを伝えるために、雪はその場で全裸になり、舞ってみせる。
いきなりこの展開。さすが、かきくけ小池一夫大先生。実写版だったら梶芽衣子はおろか、絶対誰もやらないと思う。
そして右翼の大将は、この教師こそ殺戮マシーン・鹿島雪=修羅雪だということに気付く。彼らから刺客を放たれ狙われる雪。仕込刀でこれを返り討ち。
雪は井口あぐり→樋口一葉→伊藤野枝の人脈に繋がって行くにつれ、彼女らが帝国陸軍や右翼集団から「てろりすと」と認知されている、「反国家分子」だということを知る。
軍人たちに容赦なく拷問や殺戮されていく人々に対し、雪は怒りを爆発させる。怨みじゃなくて義憤である。
とにかく上村一夫という人は絵が達者なので、殺陣シーンも抜群。血まみれさも含め、まったくもってキルビルのvol.1ですよ。
葉口一葉は上村氏お気に入りのキャラらしく、『一葉裏日誌』という彼女が市原悦子の家政婦ばりに事件を解決していく作品もある。
阿久悠原作による昭和ロマンな男女の機微モノとか、実はすうさい堂でも安定人気のブランド。
しかし修羅雪=梶芽衣子。よくもあの上村的三白眼を持つ生身の女子がおったものである。平成の今、射すくめられるような目を持つ女優さんていないんじゃないの?自分が知らないだけ?
『修羅雪姫』の海外版タイトルは「LADY SNOWBLOOD」。クールすぎる。
先日は、なんちゃって右翼な気分で「みたま祭り」に行って来たのですが、人が多すぎて焼きそば食ってビール飲んで帰って来た。何しに行ったんだ?しかも8割以上が若い娘さんばっか。なんでだ。
靖国テイストを味わうには昼間に出向かないといけないようである。結局、阿佐ヶ谷で飲みました。
ジョージ秋山のマニア間ではトラウマコミックとして知られる『海人ゴンズイ』、読む。青林工藝舎からの復刻版。
罪人が送られる流刑の島。その島を取り仕切る若者・リュウ。流人が海のものを取っただけで容赦なく殺してサメの餌。死んだ赤ん坊を背負う狂ったお姉さん・アズサ(子供の目からは虫が「にゅるにゅる」)。
そこに漂着したアフリカの子供・ゴンズイ。ゴンズイを育てようとするアズサをリュウが背後から槍で突き刺す。怒りのあまり戦いの踊りを舞うゴンズイ「フンムムフンム、フンムムフンム」。だが、勝負は持ち越される。
ピラニアのような人食いボラや、サメ以上に恐ろしいと言われるオニカマスとの戦い。
少年ジャンプ連載とは思えない血と暴力のにおい。このままジョージ先生の好きなように描かせればとんでもない作品になったかも知れないが、あまりにも暗すぎる内容にテコ入れが入る。
オニカマスを撃退したゴンズイの元に島の子供たちが団結し、「えいえいおーっ」ではっぴいえんど。唐突に終了。あれ?リュウは?
このような展開になったいきさつを聞こうと、監修の大西祥平氏がジョージ先生に食いつくのだが、「そんな深い考えがあってモノを描いてません」「手ェ抜くうまさは天下一品だから!」と、そんなことどうでもいいじゃねえか、もういい?ってなご様子。ついでに原稿も持っていないらしい。ということはインタビュー中に大西さん本人が言っているように、オリジナルの元本(激レア!!)をバラして刊行したのだろう。男である。
この本には白鯨(シロマジン)と執念で戦う鯨獲りのボスの物語『ドハツテンツク』が収録されているが、これがまさに知られざる名作。
彼は17歳の時に体を買ったタエに子供を産ませ、その子にシロマジンとの戦いを継がせようとする。なので、女の子が産まれたら海へドボーン。めでたく男子(ズズと命名)が誕生するが、彼も因果な運命をたどるのであった。
ちなみにジョージ先生、この作品の原稿もお持ちでないということ。「ゴンズイ」復刻版が出版される、たった三年前に執筆したものだということです。
『喜劇 特出しヒモ天国』(75年・監督/森崎東)鑑賞@ラピュタ阿佐ヶ谷。
特集上映「わたしたちの芹明香」の最終作。緑魔子でも梶芽衣子なく芹明香ってのがいい。もはや中央線の「いい塩梅カルチャー」ってここしかないんじゃないか。
にっかつじゃなくて東映。主演は山城新伍。この人はテレビでも売れっ子だったはずだが、こうした猥雑な作品にも出続けている。
ストリップ一座に関する悲喜こもごもが怒涛の勢いで押し寄せる。あれよあれよという間に終わり、何だかわかんないけど感動してる。芹嬢はアル中ストリッパー役で、主役じゃないがかったるそうな存在感は抜群。
ロマンポルノ屈指の名作『色情めす市場』の出演時もそうだったが、「場末」が服着てるような女優さん(すぐ脱いじゃいますが)。褒めてないような気もするけど、もはやこのようなタイプの女優は絶滅したもよう。
川地民夫、川谷拓三、殿山泰司に改造人間・カルーセル真紀といった、大人な顔たちも大量投入。
しかし当時のエロの現場ってのは演るほうも見るほうもパワフル。官憲の介入もあったりするからスリリングだ。エロってのは時間とカネをかけるだけの価値があったんである。ネットのサンプルムービーでとりあえず用が足せてしまう現在は幸福なのか不幸なのか・・・。
夢、というと自分の場合ほぼ悪い夢であり、悪夢までは行かないけれども悪い思い出が元ネタになっていることが多い。夢の中で「あれこれって夢じゃん?」と気付いて目が覚めたりする。当然寝覚めもよろしくない。
ただ最近のことが下敷きになっていることがほぼ無いので、所持金こそ常にカラッカラだが、それでも何とかやっていけてるのは皆様のおかげです。本だけでなく媚びも売ります。へっへっへ。
蛭子能収という人はタレントとしての峠も過ぎて、もはやよくわからない人だが、かつては先鋭的な漫画作品を発表していた。
フリーキーな作風の作家たちも実は、絵自体は正統派だったりするけど、蛭子さんの場合は絵柄からしてフリーキー。登場人物のほとんどがサラリーマン風だが、ことごとくイカれてる。これだけ感情移入が出来ない絵はちょっとすごい。初めて単行本を読んだ時は軽い眩暈のようなものを感じた。
蛭子能収コレクション『地獄編・地獄を見た男』を読んで久々にエビスの毒に当てられた(このシリーズ、『病気編』、『映画編』、『SF&ミステリー編』など読んでますが、どれもこれも狂ってます)。
キャラの描き分けが出来ない作家といえば大御所・松本零士先生なんかがいますが(この人は多分機械と武器を描くことしか興味がないな。女性は基本的にメーテルであり、ほぼ記号である)、蛭子さんのメインキャラも同じ顔のサラリーマン。
ただしこれがミニマルな連続性を呼び、オチが来る前に溶け出しているようなストーリーと相まって、非常に悪い夢を見ているような感覚に陥る。
一応オチがあるのは、国民のために人柱として埋められる処女を待ち伏せする自民党特攻隊員が彼女のバージンを突き破るというどうしょうもない作品・『少女死すべし』くらいか。
処女でなくなれば人柱の効果は消えるらしい。若干政治的な匂いもするが、本人的にはそんな意識はゼロでしょう、ってオチまで書いちゃったよ。
『笑う死神』はちょっとしたホラーというか、漱石の「夢十夜」みたいな風情。
力作は『地獄のサラリーマン』二部作だろうか。最初から最後まで綿々と悪夢のような描写が続く狂った名作。特に同じ顔した大量のサラリーマンが「ええじゃないかええじゃないか」とビル街を踊りまくる1ページはヤバい。今じゃめんどくさがってこんなカット、絶対描いてくれませんよ。
創作を続けていくうちに精神を病んでいく作家は多いが、蛭子能収はこれだけ発狂した作品群を描きながらケロッとしているところが凄い。
あとがきで根本敬が記しているように「エヘラエヘラしながら娑婆と地獄を行き来するのだが、当の本人はその自分自身の特異さをこれっぽちも意識してない」んである。
このシリーズは発行元が倒産しているのでほとんど古本でしか手に入りませんが、どこかで(すうさい堂とか)見かけたら購入を(すうさい堂とかで)おすすめする。多分プレミアはついてないです。
定規で引いたような狂気は「がんばってるな」と思う。しかし、エビスヨシカズのフリーハンドによる底知れない不気味さは本物。そもそも「蛭子能収」って字面が完全におかしい。