なるほどこうしちゃったのね、というのが若松孝二監督『キャタピラー』を観た感想。
戦争で傷痍軍人となった夫が帰還。ただしその姿は四肢切断、顔面ケロイド、声帯もやられ耳も聴こえず、無事だったのは脳と眼、そして性器。
自分を称える新聞記事と勲章を眺め、夜毎妻と激しいおセックス様(ジョージ秋山風)に興じる。本能つまり、食うこととヤルことだけのために生きている。
といったプロットは江戸川乱歩原作の『芋虫』と同じなのだが、乱歩はあくまでも「究極の苦痛と快楽を描きたかった。反戦を訴えたつもりはない」と言っていたのだが、この作品はラストに元ちとせの「反戦歌」を持ってきたりして、割とまっとうな反戦映画に仕立てていた。
原作を未読でいきなり鑑賞したらすごい衝撃かも知れないけど、乱歩好きの諸氏は「自分たちが見たかったのはこれじゃなーい!」と思ったのではないでしょうか。
それに、いきなりオープニングから四肢のない「芋虫状態」で登場するのもいかがなものかと。
観客は最初から「そういう人」とインプットされてしまい、結局鑑賞しているうちに馴らされてしまう。あんまりうまい演出じゃないな、と思う。
原作ではたったひとつの意思表示として残っていた「片目」を、妻が衝動的に指で潰してしまう。
苦しさにのたうち回る夫を抱きしめて何度も「ごめんなさい。許して」と泣きながら訴える妻。
翌日「ユルス」とだけ書置きして、夫は井戸に身を投げて自殺する。
乱歩が描きたかったのは夫婦間の快楽と地獄であり、あくまでも個人的なものだった。
未読だが、同じ猟奇者であるところの丸尾末広がこの作品を漫画化しており、こちらのほうが相性がよろしいのではないか。
映画なんてものは別に「納得」させてくれなくてもかまわない。びっくりさせてくれればいいんである。モラルとかもあんましいらないと思う。
そういった意味では、ぶっ壊れる寸前でストーリーが進行し、笑いとグロテスクが背中合わせ、問題が多すぎるため国内ソフト化不可という、石井輝夫監督のガレージパンク映画・『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は、最強であります。
何にしても「猟奇」を映像化するのは難しい。やりすぎるとギャグになるし、メッセージを込めると「耽美」が薄まる。
画像はネットで拾ってきた昭和の文庫本「芋虫」のカバーだが、これほど味わい深く、この作品の世界観を一枚絵として完成させたものは、ちょっと他にお目にかかれないと思う。そのまんまだけど。
それにしてもヤバいだろうコレは。昭和ってちょー過激。
ジョージ秋山『ばらの坂道』を36年ぶりに読む。
じゃなくて、36年ぶりの復刊。
主人公・土門健の母親は「きちがい」で、長襦袢着て「ゆうらりゆうらり。あははははは」なんつってファンキーに食卓ひっくり返したり、同級生の女の子の足をつるはしでブッ刺しちゃって、「ビッコ」にしたりする。
それと同時進行で母親の父親(じいちゃん)が交通事故で即死。
加害者である大企業の社長は責任を感じ(というか、健にほれ込み)、現ナマ二千万と、遺言で広大な土地を進呈。
運命を感じた健は、そこに「理想の村」を建設しようとするが、土地に目をつけた暴力団が絡む。
さらに健は「精神異常は遺伝する」と宣告される。
「ぼくがきちがいになるなんてそんなことがあるもんか」
「ある」「うまれながらの業じゃ」
とても少年ジャンプ連載マンガのセリフとは思えませんが。しかも平仮名でとんでもないこと言ってるし。
といったような内容なのでずっと封印されていたのだが(まだまだいろんな「業」が襲いかかりますよ)、アングラの聖域・青林工藝舎と古本の貴公子・大西祥平さんの情熱により見事復刻。
『銭ゲバ』『アシュラ』と並ぶ精神注入棒のような作品であります。
うっわーとしかいいようがない結末なのではあるが、それにしても自分が想像していたものよりははるかに優しい。というかわたくしはなんて鬼畜なんだろうと思った。
しかしキワモノではない。
「発禁だって(違うって)。ヤバいヤバい」といったノリで手にするとあるいは拍子抜けするかも知れない、正統派作品。
日本ロックの黎明期バンド『ジャックス』の復刻レコードからは当初、「オシ」という言葉が使われていた『からっぽの世界』が削除されていたが、今では普通に流通している。
実際にその曲を聴いたときには「ふーん、アシッドフォークだねえ」くらいにしか思わず、他の「異端のGS」といった風情のナンバーの方が響いたりした。
伝説がリアルになるのは「普通になる」ということであり、それは正しいと思う。
ヘイベイビー、テイク・ア・ウォーキング・オン・ザ・ばらの坂道。
『独眼目明し捕物帖 天牛』(大都社)。
町医者にして岡っ引。
貧乏人から薬代は取らないが、十手者としての顔はかなりダーティーで、犯罪に手を染めたものには「隠匿してやる」とゆすって金をたかり、嫁さんが美人ならば脅して体を頂き(故に、不細工の割には経験豊富っぽい)、幼馴染を見殺しにし(あたしが勝てるわけないよ!)、義賊の上前をはね、モグリの堕胎屋もやっているが(「あたしがいなきゃお前らは生みっぱなしだろ」と、一応正義のようなものもあるらしい)、一人娘を溺愛している。
要するに、全部ひっくるめて良くも悪くも人間的。
蒲郡風太郎やアシュラやデロリンマンはある意味超人だが、「天牛」氏はあまりにも俗っぽい。
このオリジナル版はやや入手が難しいようだけれども、スルーするには惜しい内容なので、一読をおすすめする。すうさい堂で売ってるとかっていう噂もある。
『銭ゲバの娘 プーコ/アシュラ完結編』(青林工藝舎)。
これはまあ、マニア以外は読まなくてもいいというか、「銭ゲバ」は生きていて、実は娘を残したのだが(風子・プーコ)、見捨てられた母親の復讐を遂げるため父である風太郎に接近する、というプロット。
なかなかあやしげな人物など配置し、ちゃんと仕上げればいい作品になった可能性もあるのですが、ジョージ先生がお得意の「あぼーん!」モードになってしまったらしく、超脱力なラスト。
これが許されるのもある意味才能。
「アシュラ完結編」は完全な蛇足。
本編は未完と言われてはいるのだが、雨に打たれたアシュラが「生まれてこないほうがよかったギャア」と決めゼリフ、個人的にはこれ以上完璧なラストシーンはないと思っているので。
先日書いた「怒鳴りババア」の件ですが、あれはどうやら、別人かもしれない。
襲名したわけじゃないとは思うのだが、「若手」が存在していました。昨日見ちゃった見ちゃった。
吉祥寺秋祭り初日も終わりかけた11時ごろ、聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえるので寄ってみたら(寄りたいんです)、三十前後くらいのショートカットにボーダーシャツの女性がおりまして、
「お前らは存在するな!!!」
「目障りだ!!!」
「ここはわたしだけの世界だ!!!!」
「死ね!!死ねよ~!!!!」
と、喉も裂けよとばかりに絶叫しておりました。
台詞回しがなかなかなので一瞬パフォーマンスかとも思ったが、あれはちょっと動画におさめて発信したいくらいだ。魂のシャウトというかゲロというか、あれを表現だなどと言うつもりは毛頭ないが、もう少しまとまった形になれば、高円寺あたりで人気者になるかも知れない。
また食えないことを書いてしまったので、奇跡的に残っていた、ヂル会長の仔猫時代の写真をアップ。
野良でもなく飼い猫のノリでもなく、どうも「猫のセオリー」を一切無視した生き物に育ってしまいました。
現在4才。行方不明になった際に真っ黒だった肉球の塗装が一部はがれて、そこだけピンク色。
若尾あやまんJAPAN主演、『悶え(監督・井上梅次/1964年度作品)』鑑賞。@阿佐ヶ谷ラピュタ。
バージン若尾が結婚した相手は不能で、まわりのヤリチン青年や(川津祐介)「翔んでる女」(江波杏子)、人工受胎をめぐるドロドロにはまっていくという、なんつうかその「インポテンツ・サスペンス」。
そもそも新婚の時点で既にセックスレス、というパターンも少なくない平成から考えると、処女妻が新婚初夜で旦那に身を捧げる、なんてのはもはやファンタジイである。ますむらひろしかっ、て話である。そこはアタゴオルなのかっ、て話である。
一番の見所は、欲情した旦那が若尾妻に挑みかかるのだが、いきなりそのシーンはバックが真っ赤にライティングされ、「渦巻き」がぐーるぐーると回りだす。いやちょっと、笑いをこらえるのが大変でした。
当時の芸術祭参加作品らしいのだが、実際のところ「エロ」を求めた観客がもじもじと鑑賞していた様も容易に想像がつく。きっとそうしたカムフラージュも必要だったのだなあとも思わせ、タイムカプセルのような一品である。
若尾さんの「元祖盛り髪」や昭和ファッションもシャレオツであります。
ここのところ同じ路線をぐるぐるしていた感がある古谷実作品だが、『ヒメアノ~ル』はひとつ、頭抜けたのではないか。
といっても冴えない男が美人に惚れられまくるパターンはずっと同じなのだが、ここでいよいよ「快楽殺人鬼」をほぼ実質上の主人公として設定してきたのである。
「それ」しかやりたいことが見つからない。無慈悲に何人も殺しておきながら、処理もガサツ、計算なし、反省なし。
「たまたまオレの普通がみんなと違ってただけでさ・・・足が速いとか・・・歌がうまいとか・・・」
「実際そんなのと大してかわらね~んじゃねぇの?」
「運悪く普通じゃなくなった人もいっぱいいるのに そんな人に病気って言ったら可哀想だろ?」
「オレはそのバカみたいな簡単さとクソ共の残酷さに・・・超ムカついてんだな」
殺人鬼・森田の独白だが、理論的に破綻しているところが、こうした人種のリアルな心理状態かも知れぬ。ラストにほんのわずか、人間らしいところを見せる。
陰惨な印象の作品だが、ダメ人間の心理描写などさらに冴え、岡田君と安藤さんコンビのかけあいや、ある意味最強のサイコ野郎・平松ジョージ君との絡みなど爆笑ものなので(いや面白いっつうか、なんて言葉のセンスがいいんだろうと思う)、お得な全6巻である。
独立した作品としてみればこの人の漫画はすべて面白いし、若者の悶々やアラサーの焦燥間など、後ろ向きで投げやりなんだけどどこか光があるみたいな、微妙な機微をついてくる。
(今思えば「稲中」にもなんとなく、デカダンなにおいがする)
しかし古谷さん、単行本カバーがどんどん好き勝手にエスカレートしており、6巻なんかまったく意味不明なタコの絵である。本当はちょっとした含みを感じられるのだが、あえて書かないのであった。
ヤンマガってのはどうしてもヤンキー嗜好なイメージがあって、その中でもここのところずっとダークなエンターティメントを描き続けている古谷作品は、この雑誌の良心・知性だと思う。
(古谷流に言えば、)箱から出てないド新品「中年童貞」の屈折した内面を描かせたら、この人は冴えに冴える。
そんな彼らが美人のボインちゃんにコクられて大混乱、というのが定番なのだけれども、作品ごとにそのカオスぶりがどんどん「面白く」なってるので、やっぱり読んでしまう。
よく考えれば孤独な童貞くんなんてのは、日本中に山ほど居る(意外と、遭遇率は少ないかも知れないけれども)。
そこにスポットライトを当て続ける作家がひとりくらいいても良いと思う。
「童貞」から紡げる物語は無限にあるんじゃないか。ただ『シガテラ』は、主人公の魅力のなさからして、女子に惚れられるための説得力がないので、成功しているとは言いがたいのだが。
主人公の年齢を三十代に引き上げ(もちろん童貞)、深夜勤務の孤独な警備員を「深海魚」になぞらえた『わにとかげぎす』は、なかなかの名作だと思う。
屈折はある程度熟成させないと、面白人間は育たない。
「あんまり早く童貞切っちゃっうのはよろしくない。そのあとの人生、どこで巻き返すんだ?」というのが我々の意見である。
NPO 「童貞グリーンピース」でも作ろうかしら(「非営利」には違いないんだが・・・・)。