鑑賞するためにはかなり重い腰を上げる必要がある一本、ピエル・パオロ・パゾリーニの『ソドムの市』(75)。
数年ぶりに観ましたが相変わらず不快です。「エロもグロも大好きだがスカトロはちょっといただけない」というのが前提であるとしても、やはりそれだけではない。
「このシーンは何とかのメタファーで」とかの解説は頭がいい人がやってくれるので任せるとして、感覚的に何が一番嫌なのかというと、あの「上から目線」にあると思う。本当に最悪なことしか描かれていないのに「これはアートである」といったような。
ナチス政権下のもと、「俺らの時代キターッ」と大統領・大司教・最高判事・公爵の四人のファシストが、厳選された美男美女で奴隷の集団を作り、ひたすらアホなことを繰り広げるというくだらん話である。
ポップコーンのようにポンポコ人が死ぬ映画は祭典よろしく大変結構だが、「ソドム」の奴隷たちは生かさず殺さず、日々バカファシストにつきあう形で悲惨な目に合う。
ファシストの中でも特に強烈な印象を残すのが「大統領」で、ぶっちゃけ内田裕也にそっくりであり、声も似ている。
この人の酷薄そうなニヤケ面は本当に嫌ったらしい。ちなみに彼は役者ではなく、ラテン語教師だそうだ(せ、せんせい!)。
「語り部女」なるものも登場。彼女たちは一同を集め、そこで自分が体験したエロ話を語り、場を盛り上げる役目のおばさんたち。興奮したカップル(男女とは限らない)は別室行きである。
このエロババアを演じる女優さんたちも芸達者で、長いセリフを滑らかに喋り、ベテランの風格を見せる。
しかし、なんでこんな作品に出演しているのだろう?と思わずにはいられない。奴隷たちも本当に美男美女ぞろいで、こんなしょうもない表現に参加することがプラスなのか?と。
「パゾリーニの頭の中にある狂った世界」を、全員が大真面目にサポートして作り上げた絢爛豪華な作品であり、それがもうこの上もなく不快な原因なのだと思う。
エンニオ・モリコーネのサントラも美しく、さらに映画は悪臭を放つ。
ここにユーモアはない。すぐに文学的な語彙でコーティングしてくるから、「うぜえ」のだ。
権力者たちが「大人の経験値」で、小学校の弱いものいじめみたいなことを延々と続けているから、不愉快さもマックスである。
大皿いっぱいの排泄物を全員で食べるシーン。「現代の飽食に対する風刺が込められているのだ~」とか思う以前に「お前らはアホですか」である。
おかげさまで「マンジャ」というイタリア語を聞くとソレしか思い浮かばなくなってしまった。イタメシを食べる習慣がなくて本当によかったです。
この作品よりも残酷さを売りにした映画は山のようにある。ただ『ソドムの市』が特殊なのは、インテリっぽさに色づけされた極悪非道な演出であり、それはラストに色濃く浮き出ている。
奴隷たちが醜い目にあっている。舌切り、眼球えぐり、焼きゴテ、頭皮剥ぎなど。
これが通常のホラーならばカメラも寄って「ぎゃー」なんつって、みる側も「わー」なんて盛り上がれるところだが、パゾリーニはとことん意地が悪いので、このシーンに「ファシストたちが望遠鏡で覗いている」という演出を施した。
もちろん声は聞こえない。望遠レンズ越しなので、ものすごく嫌な場面に遭遇してしまったような感覚を、観ている者すべてに与える。ファシストたちはそれを愉快そうに眺めている。果てしなく最悪だ。
四人のファシストは罰せられることなく映画は終わる。彼らは「楽しいこと」しかしていないばかりか、まだまだお楽しみは続きそうな按配。これに比べたら公には封印状態にあるジャンル・「ナチス残酷映画」の方が、ちゃんとナチ側がリベンジされるのではるかに良心的である。
パゾリーニ本人が「正視できる限界のものを作りたかった」と言っているので、以上のような感想は正しいのだと思う。
『ソドムの市』を完成させた直後、パーさんはボロ切れのように惨殺されてしまいまいしたとさ。