悲惨な話が好きで。というより、悲惨な状況をヤケクソ気味にひっくり返していく話が好きなんで、その結果主人公が生きようが死のうが、それはどうでもいい。
平山夢明の『DAINER』がまさにそんな感じのど真ん中。町田康の『告白』、筒井康隆の『銀齢の果て』、中島らもの『酒気帯び車椅子』あたりの読後感に似た高揚感を覚えた。脳内麻薬出まくり。
アルバイトのつもりで報酬目当てに犯罪カップルの片棒を担ぎ、見事にドジって「組織」に捕らえられた主人公・オオバカナコ(大莫迦な子)が送られた先は、殺し屋専門の定食屋「キャンティーン」。
店を切り盛りするのは「ボンベロ」と呼ばれる元・殺し屋。今までウェイトレスとして送られた女は八人。いずれも「使い捨て」。
店にやってくる客たちも、スフレ好きな火薬魔「スキン」、自分を子供の姿に改造した「キッド」、犬歯の入れ歯で相手を噛み殺す「ボイル」、元堕胎医の「ソーハ」、ボンベロに恋する暗殺者「炎眉」、歯に蛇の毒を仕込んだ「ミコト」などなど多彩。ボンベロの相棒は改造闘犬型人間「菊千代」。
ボンベロも当初は「消費」目的でカナコに無茶苦茶な労働を強いるが、カナコが即興で「ダイヤモンドで濾過した最高級のウオッカ(ボスたちが祝いの席で嗜むためのもの)」を隠してしまったり、命がけギリギリのやりとりを続けていくうちに、「こんな女は見たことがない」と次第に彼女に情が移っていく。
この作者の売りといえば人体破壊。殺し屋たちからさりげなく語られる拷問や殺戮の場面は、実にバラエティ豊かにエグい。ただ、微に入り細にわたる残酷描写が痛みを伴って読者を刺激し、現実離れした物語に現実感をもたらせていると思う。
グロテスクなだけじゃない。ここはダイナーであって、出される料理はハンバーガーなどが中心なのだけど、その描写が文字だけなのに絶妙に旨そうなんである。吐き気と同時に食欲も増す。
カナコさん、「んまい」なんて食ってるし、殺し屋どももボンベロの作るメニューには舌を打つ。
猟奇と暴力+グルメ。豊富な銃火器等の知識。殺し屋同士の友情。通してみるとカナコとボンベロのラブストーリーでもある。
しかしこの本が児童書主体の「ポプラ社」から刊行されているというのは、まさに奇跡だな。
著者あとがきの言葉のようにこれは、「殺しにかかってくる」作品。<グゥの音も出ないほど徹底的に小説世界に引き摺りこみ、窒息させるほど楽しませようとしている物語>。
短編集『他人事』や『ミサイルマン』などの陰湿さも好きなのだが(とはいえ人格なのか、平山作品はどこかポップで軽やか。グロポップ!)、『ダイナー』は大藪春彦賞などを受賞した、正面からのエンターテイメント。
実際「殺しにかかってくる」作品群は、いとも簡単にひとが死ぬ。
現実の死や殺人は悲しいことだけれど、表現においては大いに堪能してよろしかろうと思う。
それが、北朝鮮などのがんじがらめ社会や、内紛だらけで「表現なんぞさておき」な中東にはない「文化」である。
ギャングのボスが彼に憧れる少年を「道を外させないため」わざと捕まるところを見せる『汚れた顔の天使』なんて映画もあったけど、我々の感性はもはやそんなにウブちゃんじゃないのだ。
むしろ「うっそでー!」と思う。
こんなテーストのものばかり取り上げているすうさい堂さんなのですが、「この作品で命の重さを知りました」などと書いたところで、それ面白いか?とか、つい思っちゃうわけで。
そんな当たり前のことなら誰でも言えるし、しょぼいブログながらも読んでくれる人を楽しませようとするならば「善い人々がドカドカ殺されちゃって最高です!」くらいのことは書いてしまっていいんじゃないの。と。思う。
『ダイナー』は非常に視覚的にも刺激される小説なので、無国籍なイメージもあり、「洋画」で観てみたい気もする。ボンベロは「マイケル・マドセン」で。
やんちゃマドセンくんの耳切りシーン。