古屋兎丸『インノサン少年十字軍(全三巻)』読了。
どーん!である。これは名作であります。例えると、原作版デビルマンを読んだ時の衝撃に近い。
かなり少女漫画チックでお耽美な絵柄なので、おっさん最初は少々抵抗があったんだが、読んでいくうちにぐいぐい引き込まれて行く。
有名な「少年十字軍」の史実をもとに、彼らの夢や希望、それと引き換えの絶望と残酷な運命を描く。
登場人物は、奇跡を起こす神の子・エティエンヌを中心に、十字軍に心酔するニコラ、「智」のクリスチャン、双子のリリアン&ロアン、元盗賊のギー、ライ病のレミー、いけ好かない荘園主のボンボン・ギョームとピエールなど(ふと、書いてる固有名詞だけ見ると自分の文章じゃないような気がしてきました)。
最初は意気揚々と「僕らがエルサレムを奪還するんだ!」と元気いっぱいで、テンプル騎士団の加護のもと(実は彼らは「天ぷら騎士団」だった、というのは洒落ではない)、順調に旅は進んで行くのだが・・・・・・・・・・・と、これ以上書くとネタばれになるのでやめましょう。デビルマンのストーリーをバラしてるのと一緒だからである。
同性愛のニュアンスも濃厚で(これもデビルマンっぽい)、腐女子の諸君は大好物だと思う。おっさんも大丈夫だ。
宗派の対立で極端な人間狩りに走るエピソードも、デビルマン的である。
かの『漂流教室』もアレだったが、子供たちがとことん残酷に死ぬ。なんだかんだ言っても「子供を殺す」という表現が一応まかり通るのは日本の紙媒体だけなんじゃないか。
作品のキーワードは「少年の純粋さ(インノサン)」だろうか。イノセントを食い物にする輩はいくらでもいるし、それが行き過ぎるとあっという間に人間関係も崩壊する。作中、最も混乱の引き金になっているのは、最も少年十字軍であることにプライドを持つニコルである。純粋もだいぶ磨り減ってきたおっさんとしては「お前、もーちょっと抑えとけ」と思わずにはいられない。
宗教的なものは苦手だし、古屋兎丸なんて人はサブカル漫画家の代表選手みたいではあるが、これはエンタメとしてジャンルの壁をぶち破っていると思う。
おっさんも読める残酷なファンタジー。
実際の十字軍の少年たちは、奴隷商人の手に渡り売買されてしまったらしい。
『ROCKING ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』『清志郎が教えてくれたこと(今井智子/飛鳥新社)』『忌野清志郎が聴こえる 愛しあってるかい(神山典士/アスコム)』と、ここのところキヨシロー本を読んでいるのです。
RCサクセションは『BLUE』以降がリアルタイムなので、これらの本を読んでいると「あのあたりでバンド内に微妙な空気が・・・・」などとわかってしまって、何となく納得している。
『BEAT POPS』以降の作品てのは、個人的には微妙なんですよ。このアルバム、世間的にはRCが一番注目されている頃で、どんなものが出るのだろうとほくほくしながら待っていた、のだが、発売されたレコードの、ジャケットに違和感。
なんで清志郎がニヤけてるんだ?チャボやG2がアイドルみたいに写ってるんだ?と思った気がする。
確かに好きな曲もあるんだけど、なんちゅーかどこか売れ線狙いというか、以前のようなソリッドさが薄れたんじゃないの?というか。ソリッドなんて言葉は当時は知らんが、中二ってのは割りとそういうところが敏感だったりする。
以降『OK』『HEART ACE』『MARVY』とそんな感じがずっと続く。『FEEL SO BAD』は久々に本気で怒ってて好きだったけど。この辺ってのは曲のストックがなくなって、新しく作られたものが多いので、どことなく感触が違うのである。
『COVERS』は作品の内容や発売禁止のゴタゴタに孤軍奮闘していたのは清志郎一人だけだったらしく、以降バンド内に軋轢が生じ、ラストの『BABY A GOGO』ではメンバーが二人抜けてしまう(このアルバムは物悲しいくらいフォーク・ロックだった)。
ジャケットを頭の中で並べてみる。すると気付いた事がある。
『BEAT POPS』とそれ以前のジャケットってのは、実は明らかにセンスが違う。
『RHAPSODY』『PLEASE』『EPLP』『BLUE 』の四枚は、実にビッとしたバンドマンが思いっきりカッコつけていた。
中期以降はアートワークに遊び心も出てきたけれど、いつまでも眺めていられるようなクールなジャケは一枚もない。ハッキリ言ってジャケがダサいバンドってダメですよ。ロックンロールは総合芸術なんである。
要するに先の四枚と、売れなかった時代の三枚が好きすぎたってこと。今手元にあるのは『シングルマン』だけだが(それですらほとんど聴かないけど)、順番どおり頭の中でアルバムを正確に再生することができる。
結局自分にとって、セックス・ピストルズ、ザ・スターリンと並んでRCサクセションってのは重要なバンドだったんである。
まったくマニアックじゃないんですが、「究極」ってのはそういうことだと思う。
ソロワークってのはいまだにまるっきり興味がないんで、彼が亡くなったことに関しては特に思うことはない。ないんだけど、よくわからない人たちが追悼で「社会派ロッカー」とか持ち上げてたのが何だか苦々しくて。少なくともRCは最後まで聴いてきたけど、一度も社会派だと思ったことはない。社会を挑発するバンドであったとは思うけど。
『COVERS』だって、清志郎がそのとき、「なんかヤだ」と思ったことをそのまま歌っただけ。
反核テーマのコンサートをやってみようという気持ちはあります?というインタビュアーの問いに「いや、それはヤです。気持ち悪いですね、なんか」と、しれっと答えている。
「日本のミュージシャンは社会に対してまったく声を上げないからダメだ」という声があるけど、それはあまりにも真っ直ぐすぎる意見で、ちょっと笑ってしまう。
例えば井上陽水の曲に「テレビではわが国の将来の問題を/誰かが深刻な顔をして喋ってる」ってフレーズがある。この歌詞のポイントは国を憂いているのを「誰かが」と切り捨てる無関心さである。
そういう表現方法の人に反なんとか運動とかに関わってほしくないなあ、と思うのは自分だけだろうか。
大きな目でみれば、そうやって自分のブランドを守っているのである、と、思うんだけど。切り込んでいくのも表現だし、それをしないという表現もある。二種類あっていいんじゃないでしょうか。
忌野清志郎という人はその辺がどっちつかずになっちゃった感が否めないのだが、根本がヒューマニストなのだろう。
『BLUE』以前のRCサクセションに共通する匂いは「ドライさ」で、当時の録音のせいもあるだろうけれど、彼らが志向するソウルやR&Bっぽさは案外希薄だ。その辺が自分にとっては気持ちが良かったのかも。
かつての忌野清志郎の顔を見てごらんよ。人殺しの目つきだよ。こんな面構えでテレビで歌う人はいなかった。まさに看板に偽りなしである。
RCに黒人音楽を見ていなかった自分は(際どいR&Rバンドと捉えていた)いまだ、まともにソウルが聴けない。あれはウェットな人間賛歌だから、ちと苦手なのだ。踊れねえし。
ラピュタ阿佐ヶ谷にて『薔薇の葬列』(監督/松本俊夫・69年)鑑賞。
アングラ・前衛・アヴァンギャルドと呼び方はなんでもいいけど、いかにもATGな作品。
主演・ピーターのはじけっぷりが最高です。冒頭で、いきなり全裸でおっさんと絡むピーター君はこのとき、若干16才。今じゃとんでもない話。
当時はブルーボーイとかシスターボーイと呼ばれていた、ニューハーフの元祖。それにしても昭和のネーミングは常にセンスがいい。
素顔のピーターはかなり目と目の間が離れていて、中性的な雰囲気ではあるものの、すげえ、微妙なカオ。
ところがメイクすると見事なズベ公美人に。うわあ化粧ってすげえ、こええと改めて思う。
今の女装子のクオリティからすると少し下がるが、かなりイケてます。
というわけで、難しく考えるよりは当時の遊びまくったポップ・アートな作品として接するのがよろしかろうと。
どう見たってメッセージとかないよこれ。ゲイボーイの生き様?っつっても、ゲイバーのオーナーを寝取ってママとケンカしたり、ヒッピーとラリって乱交とかしてるだけだもの。
いや、ギリシャ神話の「オイディプス」を下敷きに、と解説には書いてあるんだけど、読んだことないので知らん。めんどくせえから別にいい。
倒錯していようとも、自分の資質と性的嗜好が一致している人は幸せだと思う。自分を女として作り上げた時のピーターはとても生き生きしている。
M女さんとご主人様とか、双方が合致すればとても濃厚な時間が得られるのだろうけども。
乗るか反るかである。自分は乗り切れなかったんだよなあー、などとちょっと思い出したりして。結局、中途半端にSとして開発されてしまったので、女性の方は近づかないほうが無難です。まあハンパなくモテないからね、心配ないね。
という話はどうでもよく(サーヴィスだな)、先日『毎日ぞんび』の続編・『LIVING DEAD ★ COCKTAILS』の撮影を無事に終えたのであります。
バーが舞台である。音楽はインスト・サイコビリー・バンドの『BOBBY'S BAR』に提供して頂いたので、かなりシャレオツな出来になる予定。
井の頭公園でロケもしました。とてもいい陽気で、人が賑わっている中にゾンビを三匹ほど放ちました。
しかし丸井からイノコーってのは最も人通りが多いところで、よくここをずんずんと歩いて行ったよなゾンビーズ!と思う。
今回自分は脚本/監督ということになっているのですが、撮影して編集するのが本来の監督だと思いますので、クレジットは(監督)とか、監督(?)とか、監督(仮)にしてほしいです。
大方の予想を裏切らずに最後の言葉は「明日もまた見てくれるかな?!」だったそうで、意味のない笑いをとろとろと流し続けていたお昼の長寿番組は、見事に無意味に終了したのである。
そもそもタモリという人は、ものすごくじれったい。
伝説的に語られることだが、この人のアナーキーな面白さが爆発していたのは、赤塚不二夫や山下洋輔などの身内で盛り上がっていた「密室芸人」の頃である。
ってずるいよそれ。絶対に見られないし記録映像もないんだから。
デビューしたのはいいけど、「テレビで彼の笑いは通じるのか?」と、昔の仲間たちは危惧していたが、いつのまにやら売れっ子になり、「あの男に昼の帯番組なんて無理だろう」と反対の声も小さくなかったと聞くが、いつの間にやら日本で一番有名なMCになった。
自身のセンスがスポイルされればされるほど、人気者になっていったのである。なんなんだ、この人。
ガキの頃の記憶ではあるのだが、いいとも以前のタモリは得体の知れない大人というイメージで、かなり怪しかった。そもそもデタラメ四ヶ国語麻雀なんてネタは子供には理解不能。
それでも「笑っていいとも!」のオープニングで歌い踊る姿には少し違和感があった。
わからないなりに、ちょっとカッコいいと思った大人が、なんとなくカッコ悪くなっちゃった気がしたのである。
その頃はビートたけしが破竹の勢いで、ツービートに始まりひょうきん族やオールナイトニッポンなど、自分は完全にたけし派だった。
なのだが、年齢とともに殿のセンスも磨り減って、もう見てるのがキツいなあと思っていたところに、飄々と同じ番組に出続けていたのがタモリ。
「あ、タモリって面白いんだ」と思ったのが、ご多分に漏れず『タモリ倶楽部』。
ゆるいんだけど、軽く毒もあり、ちょっとくすぐったい。改めてテレフォンショッキングを見ると、トークが結構面白い。身を乗り出して見るほどじゃないんだけど。
で、毎日会社員のように出勤して、同じテンションで「仕事」をしているタモリって何なんだ?と再確認。
さんまのように強引に自分側の空気を作ることもせず、今のたけしのような「いるだけの偶像」にもならず、引くとこ引いて、さらっと落とす。
松本人志やビートたけしだったら、つまらなくなったと見切ることも出来る。
だけどそれは、彼らの最盛期の仕事が革命的だったからなわけで、その才能が枯れていったり迷走したりするのは仕方がないことでもある。
翻ってタモリは、そういう意味では代表作がない。ただどこに当てはめても、意外にスルッとはまる。
なんとなくくすぐったい感じでずっとそこにいる。
(彼らとの決定的な違いは、タモさんは音楽がベースの人であるということ)
器用貧乏という言葉も当てはまらない。料理もトークもトランペットもデタラメ外国語も一流だから。
『タモリ読本』(洋泉社ムック)読了。いろんな人が氏について語っています。
が、本人不在。ここまで一切を語らないというのはもはや思想。
政治的な発言はしないし、反なんとか運動にもまったく関わらない。
人の出入りやつきあいはたくさんありそうだけど、きっと去る者は追わない。
慕ってくる若手ミュージシャンたちも多そうだが、どうせ誰も認めてない。だからミュージックステーションも続けられるんだな(この本に収録されている町山智広氏と同意見)。
ちょっと意外だが、『ラプソディー』の頃のRCサクセションを、自分の深夜放送で大プッシュしていたとのこと。やっぱり音楽がわかる人である。
31日アルタ前のタモリコールはすごかったらしいけど、本人はさくっと帰っちゃった様子。
32年間の無意味に意味を求めてもしょうがない、といったところだろうか。
「俺は粋だぜ/からっぽだからな」というパンクの名曲があったのを思い出した。
ラピュタ阿佐ヶ谷にて『鉄砲玉の美学』(1973年/監督・中島貞夫)鑑賞。
オープニングからいきなり頭脳警察の『ふざけるんじゃねえよ』が流れ、トバす。
早すぎる完璧なパンクである。これは上がるよ。大好きだ。
「ふざけるんじゃねえよ/てめえの善人面を/いつかぶっとばしてやらあ!」
渡瀬恒彦演じるのはウサギ売りのテキヤ。が、商売はうまくいってないし、麻雀は勝てない。ソープ嬢、いや間違えた、トルコ嬢と同棲している。
このトルコ嬢がウサギに餌をあげていると知ると「でかくなったらどうするんじゃ!あれはこまいのが価値なんじゃ!」と、ぶち切れ殴る蹴る。
そんなどチンピラの彼が鉄砲玉として抜擢される。ピストルと百万円を渡され、しっかりカチこんで来いよと。それをきっかけに、彼の属する組織が九州に進行するための口実なのである。
つまり死んで来い、と。
(ピストルを持った渡瀬のバックに、同じく頭脳警察の『銃をとれ』が流れるのだが、この歌はそういう意図で作られたんじゃないと思う。ははは)
ミッシェルガンエレファントみたいな黒スーツを仕立て、夜の街を豪遊するが、なかなか実行には至らず。
ビビッてしまう。実際のところ、チャカが怖くて撃てない。
川谷拓三とバトったり、杉本美樹とファックしているうちに、両組織が手打ちとなり、彼はまったくの用無しとなる。『鉄砲玉の美学』というタイトルは、完全に皮肉なんである。
そして本作品のラストは、「ジュピターまで」でお馴染み、松田優作IN『蘇る金狼』とそっくりであった。元ネタか?
最後の最後に頭脳警察のレアな名曲・『今日は別に変わらない』が流れる。
どれくらいレアかっつーと、ユーチューブでもアップされてないというくらいレア。
ATGがヤクザ映画を撮るとこうなっちゃうという。最底辺の若者のロードムービーみたいな趣もあり、「仁義なき戦い」以降のヤクザ映画の中でも最高傑作なんじゃないかと思うが、本作はDVD化もVHS化もされていないらしい。鑑賞するなら今です。
明日は短編映画撮影(「毎日ぞんび」の続編だよウ)のためお休みさせて頂きます。また給料日直後の土曜に休むという大胆さ。