『インドぢる(ねこぢるy著/文春ネスコ)』読了。
文章のボリュームとしては二百ページ弱くらいなのだが、これは重いです。
「夭折の漫画家・ねこぢるの面影を求めてインドをさまよう、文章とマンガで綴った追悼の旅行記(帯)」という著者が亡きねこぢるの夫であった特殊漫画家の山野一氏で、内容ももちろんであるのだが、他のよくある旅行記のような「なんだかんだでインド最高!」みたいなノリが一切ないからだと思う。
「ダメな部分はほんとにどーしよーもない」と切り捨てつつも、どこか惹かれているような、クソ暑い悠久の国に対する、飛び切り冷めた視線のスタンス。
家族ワンセット(全員ノーヘル)乗せてボコボコな道を疾走するバイク。ちょっかいを出してくるプッシャーや悪徳警官やホームレスの子ども。金ができれば増築してどんどん高くなる建物。傾いていようが大した問題ではない。インチキ観光用サドゥー。いちいち効かないホテル備え付けの備品。毎日毎日脂っこいカレーアンドモア。自分程度の精神力ではとてもついていけそうにないブツばかり揃いに揃えた国。
要するに、「吸引するとダウナーになるアレ」に耐性があればとても惹かれる国なのであろうけれども、自分はまったく興味がないし、日本国が取り締まっているのは至極当然と考える。わが国の風土にはどうしたって合わんのである。
ドイツでは回し射ちによるエイズなどの感染を防ぐため、「クスリをやるのは勝手ですが他人に迷惑をかけないでください」と、ジャンキーには無料で注射器を配布していたと聞くが、わが国はそんなにシャキーンとした国でないのも、至極当然である。
おそらくインド人は誇り高い。
カースト制度から開放させようと促された政策も取られたようだが、熱心なヒンドゥー教の信者は自分がどんな低下層だとしても、やっぱりそこに戻ってしまうそうである。
『わずか十四、五歳の少年。自分と自分が帰属するものになんら意見の相違がない。
堂々と自らの信仰と立場を出張し、譲歩も妥協もせず、必要とあらば暴力も辞さない。
そんな鋼のような態度に触れると、いい年こいた中年のくせに気おくれするものがある。
とりたててなんの信仰も立場もない。なにものにも帰属せず、その結果敵らしきものもいない。
他者との衝突を避け、長いものには巻かれがちに、かといって絡みとられもしないよう、なんとなく生きてきた気がする。
平和的といえなくもないが、何者でもないともいえる。』(本文より)
これ、まったく自分と一緒である。
最後に、妻であるねこぢるの死(自殺)について触れられている。
ここも徹底的に冷めてはいるのだが、『何という身勝手なやつなんだ。意味分かっててそれやったのか?』と、珍しく感情的というか、愛憎交えたひとことが綴られている。
このあとに収録されているねこぢるyの三本の漫画は、作者と一緒に旅行したような気分になっているため、今までとはちょっと違ったものに見えてくる(山野一作品のほとんどが、インド的な死生観に基づいているのだと思う。かなりグロでアシッドだけど)。
特にラストの『せいたか』における叙情は、イイと思う。
『この世界はめまぐるしく変化し、その変化は発狂的に加速している。
先頭の連中はシャブ中のように目を血走らせ、どん尻の方はボロボロになりながらもそれに引きずられていく。
そんな中で唯一このサドゥーたちが、このガンジス河畔で、人類の落ち着きと正気を守っているのではあるまいか?
彼らと紫煙を上げていると、ふとそんな気がしてくるが、たぶん気のせいだろう。』(本文より)
本日は台風東京直撃のためもう閉めているのですが(もう無理です)、昨日はお休みしてまっつん構成員とともに浅草散策。
(名画座で『いつかギラギラする日』を観る予定だったのだが、一日ずれておりましたです。)
相変わらずの浮遊感を堪能する。おれはもう一生旅行とか行かなくていいから、この町がこのやうな佇まいをしている限り、時々は足を運びたいと思う。
屋号にやたら「ニュー」がつく店が目立つのはご愛嬌。
三上寛が通いつめるという飲み屋「三ちゃん」も発見。まだオープン前だかでやっていなかったのだが、普通の店にもかかわらず経年のド迫力みたいなものが漂っており、ここは一見さんにはちょっと戸を開け辛い(多分いい意味で)。
先住民族である「クロマニヨン浅草人」を気持ちわりい、と吐き捨てた若造をちらっと見たが、こいつの人生における感性がその程度なのであろうと思えば、別に腹も立たぬ。
いい感じの飲み屋で一杯飲んで、稲荷町の銭湯へ。
ここはサウナ・露天風呂・水風呂完備。こういうスポットがしれっと存在しているところが、下町の凄さ。二時間くらい滞在したのではないでしょうか。
歩いて上野へ。激安かつ刺身のうまい飲み屋でさらに飲む。
完全私服は我々のみ。あとサラリーマンとOL 。
まあとにかく彼らのテンションが高い。学生を除けばワイシャツ族が飲み屋でのテンションが一番高い気がする。きっとストレスの度合いと比例するのである。でもまだ火曜だぜ?
(吉祥寺の飲み屋における比率は、意外と多くないんだよなあ)
毎日出勤して嫁と子供を食わせローンを払って各種厚生年金を払う、なんて芸当は自分にはまったく無理な「ワイルドライフ」だ。皮肉とか一切抜きで本当に凄いと思う。他にも工事現場の誘導員とか、宅急便とか、ゴミの回収業者とか、自分から見ればマジでスペシャリストです。
そしてフリーターのkくんに娘さんができました。おめでとうございます。
初期花輪和一はギャグである。『月ノ光』で堪能できます。
戦争に行かせまいと、好きな男(性次郎さん)を床下に監禁している女。聖水茶漬けを食べさせたりしているが性次郎の実の妹に発見されてしまい、そっちも一緒に監禁。
狂ってしまっている兄に殺される前に妹は床下から火箸を突き立て、それは見事監禁女のあぬすに命中して、彼女死んじゃいましたとさ(『戦フ女』)。
父親に犯されそうになったため、文字通り「箱入り娘」として育てられた「おじょうさま」に、醜い下男が箱の中を覗いて惚れてしまう。
「SM折檻だあ」と、罰として下男は両目を潰されてしまう。和式トイレの中に偲びこんだ下男は用便中のおじょうさまにそこから思いを遂げ(わかりますね?)、オチは「おおよしよし」「かわいいね」 オンギャー オンギャー(『箱入り娘』)。
少年の奉公人を「すぐ噛み殺しちゃう」手のないお嬢様に奉公するため、足を切断されてしまう娘。
お嬢様に背負われて、「手」として使用される(なんかそんな設定のカンフー映画が、昔ありました)。
とんでもない話だが、なんだかひたすらアホくさい。
ホモっぽい父親と使用人が無意味に「花いちもんめ」を踊るコマには、不覚にも爆笑(『寒(サミ)い』)。
エログロではあるんだけれども、妙に色っぽい目つきの美形キャラがくねくねとドイヒーな運命を受け入れていく様は、過剰なキャプションも込みで笑ってしまうんである。
一番その傾向が顕著なのは、冒頭を飾る『髑髏乳』。すべてのくねくね具合がおかしくてしょうがない、猟奇ギャグ漫画の大傑作であります。
「血ヌルヌルちがいっぱいでました。ち、ち、ち。赤いち黒いちベトベトベト」。
そんな中で、子供を題材にした作品はかなり深い。
「もう明日からは絶対しません」と泣きながら誓いながらも、巨大蟻の甘い卵を盗むことがやめられない兄妹(『神に誓う子』)。絵柄は日野日出志の影響が強い。
貧乏な「三吉」がお金持ちの「きん坊」とその母親に縁日に連れて行ってもらうのだが、母親はきん坊にわたあめやらアイスキャンディーやらを買い与えるのみで、他人であるところの三吉はいっさいシカト。
必死の形相で見世物小屋に行きたいと袖を引っ張る三吉を完全無視。シナソバも食えず。
帰れば実の母親にうざがられ、「やられるまにやってしまおう」と三吉、母親の入っている風呂に燃料としてガソリンをぶちまける。
「おゆかげんどうですかあ?」
子供がじわじわと自らの憎悪と狂気を増幅させていく様を描いた『見世物小屋』は、この作品集の白眉で、実にホラーな逸品だと思う。
鳥を瓶詰めにして窒息させながら三吉はつぶやく。
「たべたくっても
ひもじくっても
がまんするんだよ
がまんするんだよ
おまえはいいこなんだから」
※すうさい堂にて箱入り初版/青林堂版が販売中。
誰の話かというと、故・浅川マキさんなのだが。
浅川氏は終生、CDの音質には懐疑的であったので、CD化されたものも自らさっさと廃盤にしていたゆえ、かろうじてベスト盤が入手できるくらいだったのだが、本人もお亡くなりになったのでもうよろしかろうと、ほぼオリジナル全作品が復刻された。
(といっても限定紙ジャケ仕様なので、在庫がなくなり次第また静かに姿を消していくのだと思う)
とりあえず追悼盤二枚組ベスト『Long Good -bye』を今ごろ購入した。
二枚組というとデジパック仕様が多くなったこの頃だが、このベストはもう分厚い、どーんとしたアナログな存在感を放っている。
ほぼ全キャリアをフォロー。フォーク/ジャズ/ブルース的な70年代の曲が中心だが、80年代以降はブラコンっぽいレパートリーも歌っていて、椎名林檎あたりが歌っていたとしてもほぼ違和感はない。
「アンダーグラウンドの女王」と形容されることが多いが、黒人霊歌のカバーなんかはともかく、実は日常を切り取ったような歌詞がほとんど。そして一人称が俺・おいらの「男歌」がやけに目立つ。
意味不明なおどろおどろしさなら、椎名林檎の方が数段上である。
(この人の歌詞ってば、洗練されてるようで結構野暮ったいな、と実は思っている)
黒人的な歌唱を「クロい」と呼んだりするが、浅川マキの声は文字通り「黒い」。
ダークネス。エキセントリックな部分はあまりなく、すべてを黒く包んでいくような漆黒の声。
ファッションやジャケットなども黒で統一された、生涯、彩色を拒んだアーティスト。
『夜が明けたら』『ちっちゃな頃から』『かもめ』あたりが定番ではあるけれども、珍しくドロドロした『Blue Spirit Blues』や、怨み節の『めくら花』、ダーク・ボッサな『ふしあわせという名の猫』、アカペラからギターに入る流れが恐ろしくカッコいい『朝日のあたる家』、、「スポットライトでなく/ローソクの灯じゃない/ましてや太陽の光じゃないさ」の歌詞が泣ける『それはスポットライトではない』、ドランキンな『ジンハウス・ブルース』など、夜に聴く名曲集といった風情。
ここのところ購入したCDでは特に恭しく扱っている盤であり、基本的に家で夜に一人で聴く歌であると思います。
晩年の浅川マキは膨大なレコードや本などのコレクションをほとんど処分していたらしく、それは何となくわかるというか、すうさい堂さんも手持ちのコレクションなどはかなり少ない。
ただこのベストは、おそらく手放すことはないのではないか、と思っている。
まだまだ残暑もきついが、ぼちぼちこの人の声が似合う季節だなあなどと想いをはせつつ、もう節電もめんどくさくなったため、冷房を効かせた部屋にて候。