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すうさい堂の頭脳偵察~ふざけてません。

すうさい堂は閉店しました。17年間ありがとうございました。

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中島みゆき賛江



冬はきついっス。客足も更に途絶え、インフルエンザの恐怖と戦いながら電車に乗り、どーかと思うくらいの寒がりなので常に小動物のように震えているんでス。
ただ、中島みゆきがいい塩梅に沁みる。『寒水魚』までのアルバムは全部好きで、なんだよ大ファンじゃないかーと。
もう一方の双璧であるユーミンに思い入れはない。あの方は裕福層に向けてしか歌ってないから(とか思う僕は心の貧民)。
最近は「応援歌を歌う人」というイメージらしく、落ち込んだときに聴いてさらに落ち込んでスッキリするというのが正しい中島みゆきの聴き方、というオールドファンとはえらく距離がある。
「ファイト!」あたりからなんだろうか。最初に聴いたときはちょっと動揺したけど、なんか違和感が残るし、「戦う君」と「戦わない奴ら」を単純に二分化するのもどうかと思う。やたら「あちら側」と「こちら側」を強調する漫画(迷走王ボーダー。あっ書いちゃった)を読んでうんざりして以来、そういう線引きには敏感になってしまったのでス。
去年の「麦」ですか、あの一連のスペクタクル感にもまったくついていけず、やっぱ70年代の曲がいいよなーと後ろ向きな聴き方ではあるのだが、まあその辺は嗜好の問題。

ファースト『私の声が聞こえますか』のジャケに映っているのは実に地味なおねえちゃんだが、みゆき節はすでに出来上がっている。大上段に構えた『時代』より、デビュー曲の『アザミ嬢のララバイ』がいい。
セカンド『みんな去(い)ってしまった』は昭和チックなやさぐれ感がここで全開。数曲のポジティブな、ほっこりナンバーもいいフック。この時点で「春夏秋は冬を待つ季節」と歌い切った才覚!
ひとつだけ嫌いな曲があるけど、それはそれ。
サード『あ・り・が・と・う』も引き続きやさぐれてますが、全曲名曲。最初のピークはここじゃないかと思う。
『朝焼け』のボサノバ・テイストが抜きん出てオシャレ。
で、『ホームにて』。別に地方出身じゃないし、地元への思い入れはゼロほども持っていないのだけど、これを聴くとグッと来る。歌のちから、ってやつだろうか。
初期三枚はまだ「怨み節」が炸裂していないので、比較的ライトに聴ける。特に三枚目がお薦め。

四枚目の『愛していると云ってくれ』は昭和歌謡史にも残る大ヒット『わかれうた』収録。いよいよ「あの路線」に拍車がかかる。
朗読からいきなり「れぇーいぃこぉー!」の絶唱が始まる『怜子』でいきなり掴まれ、「傷歌」の連打。
ミュージシャンを目指していたカップルが別れたあと久々に会う。女は成功したらしいが男はギターをやめた。
女は男に違和感を感じつつ、「二人とも黙ってお湯の沸く青い火を見ている」という掌編のような曲、『おまえの家』の淡々とした感じがむしろドラマチックで、ラストの金八先生でお馴染み『世情』は、ちょっとだけくどい。でもとても好きなアルバム。

五枚目の『親愛なる者へ』。実はこれに一番思い入れがある。
中学生といういきものは「ラジオの深夜放送」が大好きなのであって、自分はオールナイト・ニッポン派。
小六で所ジョージのDJ(火曜)を聞いて、「世の中にはこんなに面白い人がいるのか!」と開眼。ちなみに水曜はタモリだった。
で、月曜の中島みゆきの放送を聞いてみたところ、桁違いの躁状態。これがあの暗い歌を歌っている人?とのギャップに驚いた。番組のエンディングに流れる『小石のように』が好きになって、このアルバムを購入。
一曲目の重たくヘヴィな『裸足で走れ』。ヒット曲よりさらに暗い。
「ささくれひとつも作らぬ指なら/握手もどんなに楽だろう」と、偽善を見透かすような鋭い歌詞。
二曲目は失恋酔いどれ女を乗せて走る深夜タクシーの情景『タクシードライバー』で、なんかもう、心掴まれていますた(ちなみにこの時点でタクシーというものに乗った記憶はない)。
マツコ・デラックスもフェイバリットに挙げる名曲。
シンプルだけど「明日は少しましになれ」の一行が効きまくる、『泥海の中から』と続く。
キラーチューンは『狼になりたい』。
「狼になりたい/ただ一度」と繰り返されるが、チンピラがやっていることは、夜明け間際の吉野家でクダを巻いているだけ。なんとかしようと思ってたのに、こんな日に限って朝が早い、らしい。
歌詞をセリフにすると
「みんな、いいことしてやがんのにな・・・いいことしてやがんのにな・・・・・、ビールはまだか!!」。
この、やるせないダメ感は何回聞いてもノックアウトされる。チンピラになったこともないし、吉野屋でクダを巻いたこともないけど、誰しも持つ「「あー畜生、はっちゃけてぇんだよ!」といった苛立ちに切り込んだ最高の一曲。
曲にバラつきのあるアルバムだが、ラストは盛大に盛り上がる『断崖ー親愛なる者へ』。でも具体的に何のことを歌ってるのかは、いまだによくわかりません。
「小石のように」「狼になりたい」「断崖」の後半三連打を一人で飲みながら聴いているとき、自分は泣いちゃってるかもしれないス。

六枚目は聴くためには相応の覚悟がいる『生きていてもいいですか』。
黒ジャケに白抜きで『生きていてもいいですか』。「い、いいと思います!」としか答えられない。
朗々としたダークな曲が多い中、『泣きたい夜に』『キツネ狩りの歌』『蕎麦屋』(本当にそば食ってるだけの歌)のライトさが光る。
「一人だけ泣くとなんだか自分だけいけなく見えすぎる/冗談じゃないわ世の中誰も皆同じくらい悪い」
の一行は、処方箋として効くんじゃないかな、と。
七枚目『臨月』と八枚目『寒水魚』は80年代で、ニューミュージック的な音作りだが、全体的にしっとりしているので、当時流行のダメ感は皆無。
これも後半の三連打ずつがいい。『明日天気になれ』と『傾斜』は「応援歌の人」のイメージをひっくり返すシニカルさたっぷりの名曲。
以降の数枚はエイティーズアレンジが少々耳に痛く、場合によっては古臭くなってしまって残念。曲はいいのになあ。

自分の好きな作品は限定されているけど、今も絶大な支持を集めているというのはすごいことで、それはやはり嗜好の問題。
ナイフのような言葉とは、中島みゆきの歌詞を指す(ベンジーじゃないと思うよ)。
膨大な数の傷歌はもちろんフィクションで、これが実体験に基づいているとしたら、瀬戸内寂聴並みの満身創痍な人生になってしまいます。
つまり匠。名匠、名人芸ってことで「うわっすごいとこ突いてきたっ」と、拝聴すればよい。
人間なんてそんなにがんばれるもんじゃないから、ちょっとネガティブな感覚をうまく料理して、まあ別にいいんじゃないのー?と「いやしうた」として聴き手に届けてくれる、中島みゆきとはそんな存在(だったと思う)。
男の中島みゆきファンってほとんど出合ったことがないけど、野郎が好むには少々繊細すぎるのか、それとも毒気に耐えられないってこと?





満島ひかりバージョンで。

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伊藤潤二はびっくり箱である



ところで、手塚先生が作品中もっとも多用するフレーズって何か知ってます?
自分のリサーチによると「ウヒャーッこりゃひでェ」である。
事故でグシャグシャの遺体が出て来ても「ウヒャーッこりゃひでェ」、もんのずごいブサイクなおばさんが出て来ても「ウヒャーッこりゃひでェ」。たしかに読み手もそう言われると、何となくテンションが上がる。
この「ウヒャーッこりゃひでェ」に特化したジャンルがホラーで、伊藤潤二『うずまき』を久々に読んだ。
どのページをめくっても「ウヒャーッこりゃひでェ」の乱れ撃ち。ははは。
しかしこの人の作品は、グロテスクであってもポップである。つまりアイディアが「びっくり箱」。
中盤でとんでもないモノがいきなり登場し、そのままドドドドっとラストへ。実際、オチは弱いかなーという気はする。

うずまきによる怪奇現象に呪われた町、黒渦町。伊藤潤二作品といえば「美少女」であって、主人公の五島桐絵さんも然り。彼氏の秀一君は「親父がおかしい、渦巻きに異常に執着している」と最初からノイローゼ顔。
この親父さんは特注の丸桶に入り、自らの体を渦巻状にして死ぬのだが、この絵の見開きがぶっとんでる。初見はもう「あっ!」って感じで、ほとんどギャグの域にも達している。この作者、ジャンル的にはホラーだけど怖いと思ったことがないのはつまり「あっ!」=「ぶっ(笑)」に転じてしまう紙一重なセンス。
身体中を「渦巻きの空洞」に食われて消滅してしまう少女。渦巻状に自己主張を始める髪の毛。身体中をねじれさせて合体し、海に消えるカップル。なぜか人間がカタツムリに変身する現象(ヒトマイマイ)。エトセトラ、エトセトラ。
これらがすべて「呪い」で片付けられ、オチは投げっぱなし。
いくらバラバラにされてもパーツで蘇生していく「すくすくせいちょうホラー」の『富江』もそうだが、この人の作品は潔いくらい、意味もメッセージもゼロ。
どれだけ読者をびっくりさせられるか、ということに特化しているように思う。
繰り返すが、伊藤潤二は美少女が抜群にうまい。
ホラーが支持される要因として「女の子がかわいい」といのが昔からの定石で、自分も当然『恐怖新聞』より『エコエコアザラク』が好きだった。

先人である楳図かずおや日野日出志には、容赦ない描写と共に深遠なメッセージがある。
『漂流教室』では巨大な怪虫が暴れるが、実は小さな虫の大群となった怪虫が「ザザザ」と子供たちに襲いかかり、骨にしてしまう描写のほうが凄惨。
「あけてっ!!」「あけてくれーっ!!」と叫ぶ彼らを閉じ込めてドアを塞ぎ、犠牲にしてしまう主人公たち。
「だって、しかたがなかった!!」。ほんと、よくこんなの描いたもんだと思う。
日野作品で忘れられないのが『水色の部屋』で、子供を中絶してしまったカップルと稚魚を産むグッピーが対照的に語られる。
おびただしい数の胎児が「なんで殺したんだ~」「寒いよう~」と女性に群がる描写がショッキング過ぎて(彼女の幻覚なのだが)、さすがに読後すぐに捨てた。あれほどおぞましい漫画は読んだことがない。
「やるなら徹底的にやる」という作家魂に、ポップさは微塵もない。

なぜしつこく「伊藤潤二は意味がない」と書いているかというと、本書の解説がひどすぎるから。
元外交官の作家が「本書は21世紀の資本論だ」「伊藤潤二はマルクスなみの天才だ」とぶちあげているのである。
天才ということに異論はないけれど、いちいち弁証法だの格差社会がどうのと、ひどいこじつけをしている。
っていうかなに言ってんだか全然わかんねぇ。
作家なのに文章の意味がまるでわからない。意味が伝わらないのはアホの文章なのであって、本を買ってこの解説を読んだ人は全員げんなりしたんじゃないか。そうだったのか!なんて思う人はまずいねぇよ。
お門違いもいいところで、マルクス語りたいなら他でやればよろしい。完全な人選ミス。
帯にも「今日の格差・貧困社会の到来を予見したホラー」のコピーが舞っていて、あっはっは、である。
これをどう読んだらそんな解釈になるのか全然わかんねぇ。
せっかく「無意味でポップな、単なるホラー漫画の力作」を描いた著者も、これじゃあ浮かばれない。
表現からは高尚な意味を見出さなければいけない、という精神が貧困そのものなんである。

ぶっちゃけ、この作家が原作で、伊藤潤二作画による作品(軍事ものらしい)が当時連載されてたという事情による「事故」なのだが、そんなの読んでるファンがいたとも思えない。
ウヒャーッこりゃひでェ。

アナーキーインザ神保町



カレーが好きなんです。ラーメンより、普通に、カレーが好きなんだあ。
先日は久々に古本とカレーの街、神保町を徘徊。「エチオピア」は少し前に行ったので、夕刻に何かないかとウロウロしていたら「ボーイズ」という屋号を発見。メシ抜きだったんである。
カレーつきハンバーグ定食を注文。プレートにはナポリタンまで乗っている。
食むと、陳腐な表現だがこれらすべて昭和の味。カレーxデミグラスxケチャップって、笑っちゃうくらい王道。
「からだだけがおぼえている」と、Jポッポ的な言い方をしたりして。生姜焼きが有名な店らしい。今度はそっちだな。
やきそば専門店も発見。「よし、まだいける」と(完全に井之頭五郎さんの影響)小盛りを注文。
「孤独のグルメ」ごっこをしているうちに段々板に付いてきたと言うか、「ふう。いいタンメンだった・・・」とか心中つぶやいてみる自分。

しかし神保町古書店の、アティテュードの不変さ。自分で言うのもなんだが、どの店も本当に愛想なし。
静かに仕事をこなしつつ、お客が来るのを待っている。私はそれだけだと身が持たないから、つい音楽のボリュームもでかくなり、綴りはじめるとブログも饒舌になる。
昔からあるエロ本専門店(DVDじゃないよ)が、まだ残っている。今やほとんどの雑誌がDVD付属とはいえ、このポリシーはなんなのか。
さらに老舗のエロ本専門古書店も健在。「B5サイズくらいの背表紙がついたマニアックなエロムック」(わかるね?)とか、官能小説の文庫などがズラリ。
ここは品揃えが渋すぎて買ったことないんだよなあ、などと思いつつ拍手を打ちたくなった次第。ぱんぱん、と。
この街だけは、「あれ、なくなっちゃったんだ?」が体感的に本当に少ない。
変わらない、無愛想でかまわないというより、変えたり、愛想振りまく必要がない。それでずーっと成り立っているという凄み。淡々としながら且つ、自由な空気がそこにある。生き馬の目を抜く吉祥寺でこれはなかなか真似できません。真にアナーキーってこういうことかと思う。

時計じかけのおぼっちゃまくん



もはや古典の『時計じかけのオレンジ』を久々に鑑賞して、「今みるとここがなあ」といったダサさが一片もないことに少々驚く。
映画史上に輝く最も洗練されたウルトラ・バイオレンス作品。1971年のロックを使用すればまた違ったものになったかも知れないが、キューブリックはそれをしなかった(ロックバンドに興味がなかっただけかもしんないが)。
全編ベートーヴェンと、オリジナルの電子音楽。これが作品を古びさせない大きな要因で、サントラを聴くとクラシックであるベートーヴェンがまた違って聴こえる。店でもたまに流しているけど、なにやら荘厳かつちょっと尖った気分になる(ただし、「ウィリアム・テルの早回し」で我に返る)。
よく「xx年代の時計じかけのオレンジ」というコピーを見かける。つまりエポックであったということで、ロックを使用せずとも最高のパンク・オペラ。ホラーショー!!

暴力・強奪・レイプ(あと3Pとか)が大好きな主人公アレックス(マルカム・マクダウェル)をロック少年ではなく、ベートーヴェンをこよなく愛する知的なキャラクターとしたところがやはり素晴らしい。平成のチーマーにそんな奴はいないよ、多分。
しかもご両親健在の、団地住まいのぼっちゃん。ただ純粋に人を痛めつけるのが好きなだけ。
スラムから暴力で伸し上がり「ロックンロールは心の叫びだぜ!」ならば反逆児と呼べるだろうけど、彼はそうじゃない。最高級のスピーカーでベートーヴェンを鳴らせる家がある。
ドルーグ(仲間)もいるが、ボンクラばっかり。抜きん出た残酷さを持つアレックスは、彼らも暴力で支配する。
しかし、マルカム・マクダウェルは若き日のミック・ジャガーのような悪魔的な風貌を持ち、上目使いで冷笑する顔は実にパ-フェクト!(同じような挑発的な目つきをする女性に栗山千明さんとかアーヴァンギャルドのボーカルの人がいるが、あれもちょっとたまんないっすねぇ)
結局アレックスは仲間に裏切られ服役。ここで出てくる刑務所長がコメディリリーフとしてかなりいい感じ。
政府が研究中の実験モルモットに志願することによって、娑婆への復帰を約束されるのだが。

まあ有名な作品なんですが、「暴力には抑止力を!」ということで、アレックスは固定されて大好きな「超暴力」を見せられているうちに吐き気がして気分が悪くなる。そうした実験で暴力衝動を排除するのが政府のやりかた。
しかもBGMにベートーヴェンが使用され、アレックス絶叫。
「これはひどいよ!彼は何も悪くない!!」
アレックスは他人に抵抗できなくなり、ベートーヴェンを聴く事もできなくなる。
その状態で娑婆に開放されるが、自分の部屋には居候がでかいツラで居座り、かつて痛めつけたホームレスに復讐され、警察官となった元ドルーグたちにもリンチされる。
「ウェル、ウェル、ウェル!」と不敵に笑うデブ。いいシーンである。

「人間性の回復」とか「善悪とは?」といったことがテーマになる後半なのだが、十数回も観てると「これはこれで別にいいんじゃね?」という気になってくる。
「猫おばさん」(だいぶ痛いキャラ)を殺害し、作家夫婦の家庭を崩壊させ、余罪もいろいろ。敬愛するベートーヴェンを聴けなくなるくらいは妥当な罰なんじゃないか。そもそも普通に生きていればボコりボコられなんて場面は、そんなにないはずなのだ。
昨今の残酷な少年犯罪。やらかした事に対しての妥当な判決もほとんどないだろうし、クロックワーク式の刑罰なんかも実際の話、アリなんじゃないかと思う。
例えばバックストリートボーイズとかダフトパンクとか(こいつらはほとんど邦楽)、AKBでもグレイでもミスチルでも、連中がもっとも好きだったもののひとつやふたつ、奪ってやったっていい。レイプ犯には強制パイプカットとか。
醜い事件を起こす少年犯罪者(と予備軍)は、アレックスの絶望を味わってみればいい。

ともかく映画としてはファッション・美術ともにホラーショーなんで、「ヤーブル引き締めてビディーせよ!マルチック&デボチカ!」ってことである。皮肉に満ちたラストへの展開も、絶望的というよりはスカッとする。
そして、これほど『雨に歌えば』を悪意に満ちたマナーで使ったアートはない。
仮にその曲がザ・フーの『マイ・ジェネレイション』だったらちょっとベタだったかな?と思うと、奇跡的なコラボ。
たとえそれが、キューブリックのロックに対する無関心の産物だったとしても。


少女椿は綺麗に咲くか?



今月の『Hanako』誌、特集「吉祥寺のオモテとウラ」に有難く掲載させて頂き候。
「吉祥寺のアナーキーさを象徴する店」と紹介されていて、ワーオ!
んーと、わたくし自身は吉祥寺にアナーキーさを感じたことがないのでありますが。阿佐ヶ谷の北口あたりの方がよっぽどアナーキーだと思う。
吉祥寺の不動産屋を舞台とした漫画家の人の対談も載っていて、作中でバウスシアター閉館に触れ、「吉祥寺も終わったな」のセリフが。
アナーキーインザ吉祥寺があったとすれば、今更ながらそれは恐らくバウスという映画館。メジャー作品を上映しつつ、裏に回ればかなりのマニアックさと遊びに溢れた企画を通していた。
「楳図かずお映画祭」とか「一週間パンクムービー」とか、場合によってはガラガラだったりしたのだけど(イギーポップのライブ映画etc・・・)、それでもやりたいこと優先、洒落が優先という姿勢が吉祥寺カルチャーってことだったんだろうなあ、と思う。
この街はオシャレだけどシャレッ気が足りなくなってしまった。それを考えるとすうさい堂なんかは「これやってオレの人生終わるんだろうなあ・・・」と考えるとかなりブラックな笑いを提供しているわけで、そこらへん、よろしくね。
全然関係ない話だが、キングオブコメディの解散がやはり残念である。
昨今はコントのレベルがどんどん上がって来ていて、サンドウイッチマンとかバナナマンとか面白いなあ、うまいなあと思う。
でもキンコメの凄さは「うまいなあ」とか思わせないところで、「ギャグが直撃」するんである。
高橋健一のほぼ日常会話なツッコミと、今野浩喜の放送ギリギリ感満載の爆発力。役者に転身するには、ちと早い。キングオブコメディの名前は伊達じゃないのだ。
しかしパーケン、今後どうするんだろう。死んでしまった人は人生完結だが、彼の人生はまだ続くのだ。
惜しい才能が終わってしまった(のか?)と思う。

さらに話は関係ない。丸尾末広の『少女椿』が実写映画化ということで、吃驚ぎょうてん。
この作品、アニメ化もされていて、昔は中野の単館上映を観に行ったもんだが、見世物小屋にフリークスという描写を避けて通れるはずもなく(避けちゃったら別物)、大丈夫なんだろうか?
「みどりちゃん」役には中村里砂さんという女子。知らなかったけど、中村雅俊の娘さん(お人形さん!お人形さん!!お人形さん!!!)。
中央線及び世界中に熱狂的なファンを持つ丸尾末広の代表作。成功を祈りたい。

ところで当店も丸尾作品は別格扱いなんである。
誰の本の顔を出して飾ったら一番美しいかと十秒ほど熟考したのち、丸尾本ということになった。
カバーからして、この人の絵や彩色は本当に美しい。で、本を開けば凄惨なエログロ地獄絵図。
伊藤潤二や高橋葉介も然りだが、ホラーやエログロってやつは、絵に魅力がないと成立しないジャンルである。つまらない絵のホラー漫画なんて、ほとんどゴミ。
そして丸尾作品は圧倒的にポップ。無意味、と言い換えてもいい。
古今東西のカルチャーのコラージュ。元ネタを探せばちょっとした教養になる。
日本軍やナチスをモチーフにしたものも多いので、その辺を受け付けない人も多そうだが、丸尾作品はまるっきり無思想。そのポップさ無意味さゆえに、幅広いファンがいる
(人間の業とか情念とか、本当にドロドロしたものを読みたいなら花輪和一。こればかりは手放せなかったりして。少々なマヌケさも含めて最高)。
ファシスト、ファシズム、ネオナチ、全然関係ない。
絵がまったく劣化しない。それどころかさらなる高みにのぼっていて、近年の幻想文学とのコラボ『パノラマ島奇譚』『芋虫』『瓶詰めの地獄』なんか、これらを漫画として描き切れるのは、さすがに他にいないでしょう(「パノラマ」は手塚治虫文化賞!)。
初の続きもの『トミノの地獄』も2巻以降が楽しみである。
偶然なのか最近、古屋兎丸の『ライチ光クラブ』とか杉浦日向子の『百日紅』とかのいわゆるサブカル漫画作品の映画化が続いている。サブカルチュア復活か?だと良いな。
ついでに山野一『四丁目の夕陽』や、大越孝太郎『マルサイ』なんかも映画化して、スクリーンに地獄の花を咲かせて頂戴。


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性別:
男性
職業:
古本すうさい堂
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