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すうさい堂の頭脳偵察~ふざけてません。

すうさい堂は閉店しました。17年間ありがとうございました。

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バカマッチョの壁



毎年、5月24日が誕生日なのですが、この日はボブ・ディラン、鈴木清順、横溝正史、哀川翔、安藤昇などアウトロー寄りの文化人が生まれており、自分もそれに近づこうと日夜努力していますというのは冗談として(爆)、控え目に云っても自分はクズですので、「オレはこんなもんじゃない」と思ったことがほとんどないのはよかったな、というのが『ペイン&ゲイン』を観た感想です。

『ペイン&ゲイン 史上最低の一攫千金』(2013)。この邦題にして白人と黒人のきんにくんが並んでいるジャケ、さらにアクションコーナーに置かれていたとなると普通ならば絶対に手に取ることのない作品なのだが(しかも監督がメガ作風でしられるマイケル・ベイ)、高橋ヨシキ先生の推薦作なので、これは押さえておこうかと鑑賞しましたらば。
驚愕のバカ映画。砂糖菓子のような「おバカ映画」ではなく、「狂気」などと棚上げされるものでもなく、ただもうプレーンなバカがやりたい放題。これが実話とはにわかに信じられないくらい、バカとしてのクオリティが高い。何を言ってるのかわかんなくなってきたが。
主人公は筋トレマニアで、ジムトレーナーをしているダニエル(「テッド」の親友!)。
「自分はスーパーヒーローみたいに鍛えているのに、この程度の境遇はなんなのか」と不満タラタラ。前科者である割には普通に社会に溶け込み、それなりの生活を送っていると、傍目には見えるのだが。
いよいよ「オレはこんなもんじゃない」が沸点に達し、同僚で「インポの治療費が欲しい」黒人・エイドリアンと、ムショ帰りで仕事がない黒人・ポールを仲間にして、「金持ちのジジイをさらって財産の譲渡契約書にサインさせてそれを山分けしよう」と、ちょー雑な計画に誘い、脳みそにステロイドを注射しているような三バカが揃う。

標的はジムの顧客・カーショウ(知りあいを選ぶってのがまずバカって気がする)。ちょー手際悪く誘拐を成功させたが、案の定、主犯がダニエルだとバレてしまう。
こうなると何が何でもサインしてもらわないとシャレにならないのだが、ダニエルは仕事があるので、失業中のポールに見張り役を託す。が、ポールは獄中でクリスチャンになっているので、慈悲の心でカーショウと「おともだち」になってしまい、ついでにユダヤ人であるカーショウを無理矢理キリスト教に改宗させたりする。バカだから。
日々繰り返される拷問に音を上げ、譲渡書にサインをするカーショウ。インチキの公証人も巻き込み、世にもアバウトな財産乗っ取り作戦を成功させてしまうのだが、こうなるとやっぱ、カーショウには死んでもらわないといかん、と。
でもバカだから脇が甘いので、殺したはずのカーショウが奇跡の生還。しかし彼の素行の悪さや人種差別的なニュアンスも込みで、警察はなんとカーショウの証言を完全無視!マイアミ警察のバカっぷりも描かれる。
カーショウは最後の頼みの綱として、引退した老探偵・エドにこの件を以来。
バカばっかりの本作中、エドは唯一の良心であり、整理整頓ができるキャラ。後半、彼がダニエルたちを追い詰めていくことになる。
まんまと豪邸や財産を得たバカたちだが、ポールはコカインにはまり、エイドリアンは結婚して家を買ったら素寒貧。
市民生活をエンジョイしていたダニエルだが、バカ二人につきあう形で、第二の犯行に手を染めることになる。

とまあ、今回はバカバカ書けるので大変気持ちがよく、オチまでバラしそうなのでここらで自粛。
思うにこのダニエルって人、バカには違いないのだが得た資金で商売を始めるとか、何か特殊な才能があるわけではなく(トレーナーは続行)、横取りした豪邸に直接住み、ご近所に気を使って、「ソファーがふわふわ」程度のことで感動している、ごく普通のいわゆる「ヤンキー」なんである。ただ、「足るを知る」を知らなかった。他の二人はそれを下回るバカなんだが。
(リーダーシップがあるのでちょっと切れ者っぽいのだが、直情的にブチ切れて後半とんでもない展開を巻き起こすので、結果的にはやっぱりバカ、か)
二時間、悪魔の所業というよりは、バカの所業が大爆発。マッチョは勇敢でタフな正義のヒーローという定石が木っ端微塵。だって、やってることが「誘拐」と「殺人」と「死体遺棄」なんだから。
「実際にあった犯罪事件をこんなお笑い映画にするとはなんたる不謹慎。胸糞悪い」という声もあるとは思いますけれども、ならばこれほど驚きのバカ・ノンフィクションをシリアスに書き換えれば納得するんですか?と思う。
こういう作品を知るたびに湧き出る感情がひとつある。「ざまあみろ」である。
正義のモラルには、バッドテイストなブラックジョークで戦う。
ひとこと言わせてもらえば、カッコいい犯罪者であるルパン三世をボンクラな善人に貶めた『カリオストロの城』は、犯罪的なクズ映画。どちらを「胸糞悪い」と感じるのは自由なはずであり、それがバランス。
本作はアメリカで大ヒット、日本は劇場未公開。バカ度合いが日本人の許容範囲を超えていたからか?


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愚直にして大傑作・実写版おろち



「漂流教室」も「洗礼」も最高だが、人間の恐ろしさと哀しさ、諸々の情念ドラマが大爆発している点において、やはり「おろち」なのであった。
初めて読んだのが小学校高学年というのも大きいが、「おろち」は「ブラックジャック」と並んで当時の自分の教科書的な作品であった。というより、教科書が教えていることの百倍凄かった。てなわけで「トラウマ」という言葉は使いたくないわけです。
楳図かずお作品というのがあまりにもオンリーワンで、トキワ荘の流れとも違うし、初期の少女漫画テイストは完全にどっかいっちゃったし、劇画でもないし(アクションがまったく描けない)、「ガロ」みたいにアンダーグラウンドなわけでもない(超メジャー)。
描き込めば書き込むほど現実離れしていく画風や独特な記号(子供たちのソックスがみんな「プックリ」していたりとか)、おなじみ「ひいー!!」「ああっ!!」「ギャッ!!」「は は は は は は」「ワハハハハ」「ドドドド」「そら、見てごらん!!」といった独自の言語感覚。この大時代的なセンスで貫き、時代にまったく迎合しなかったってのも素晴らしい。
というわけで楳図作品は実写化が大変難しい。どうやったらこの「ズレ」をリアルの風景や人物にフィットさせるのか、ということが難題なのである(ほとんど失敗してる)。
ならば「セットやキャラを原作の方に寄せちゃえばよくね?」と、愚直だが大正解な試みが2008年の実写版「おろち」なのであった。

原作の中でも最もおそろしいエピソードが「姉妹」と「血」で、これに老いてゆく大女優の美への執着を描いた「洗礼」もミックスさせ、女どうしのドロドロした情念を観客に向かってぶちまける。
楳図作品の根幹を成すものは非常にデリケートというか、ツッコミひとつで木っ端微塵になってしまうような脆さを含んでいるのだけれど、この映画はそれを一切せず、とにかく原作のテイストに近づけていく。
(オープニングで「私はおろち」っつっても「あんた誰よ?」って話で、楳図フリークのための作品には違いないんだが)
ゴシックな洋館のセットを作り、ほとんどの物語がそこで行われるのも正解。
木村佳乃(姉)・中越典子(妹)の「ウメズライン」を持った美人女優に、主治医の嶋田久作、チンピラ映画青年の山本太郎などの、いかにもウメズ的なキャラがウメズ的小道具の中でウメズ的な会話を話す。
ただ、おろち役の谷村美月よりは、もうちょっとバタ臭いルックスの女子(しょこたんとか)の方がよかったんじゃないかと思う。
とはいえ、狂言回しに徹しつつ、瞬きもせずに涙を流し、人差し指を立てれば枯葉が舞い、原作オリジナル演歌「新宿がらす」を本当に歌うとなれば「これだよこれ!」とファンは感無量なはず。

「門前家」に生まれた女たちは29歳をきっかけにポツポツと腫瘍が出来始め、それが全身に移り二目と見られないような姿になる(原作では18歳だが、これじゃ早すぎるとの改定であろう。ちなみに映画では一瞬だけ、その悲しい姿が映る)。
女優だった母親もそうだったし(木村佳乃一人二役)、姉妹も常にそのことに怯えている。
おろちはメイドとしてこの洋館に住み込みになるのだが、その記憶を植えつける手段として、姉の額に手を当て「額にクモがはっていたのです、そら」。
これを本当にやった。降参です。
この運命を変えるには血液型が同じで身寄りのない女の子(谷村美月の二役)を引き取り、全身の血を入れ替えればよいのではないかしら?とのぶっとんだ発想をかまし(この辺は「洗礼」テイスト)、姉のために妹がそれを実行する。しかも「自分ち」で血液入れ替え決行するも、違う型の為に失敗。
なぜ確認しない?
しかし、前述の「脆さ」とはこういう部分であり、そこで笑っちゃう人はもう観なくてよろしい。
原作を知っている者は熟知している骨肉の争いが描かれ、正気を失った姉に妹が告白する真実、それも我々は知っているのだが、こうなるともう冷静ではいられない。要するに二回観て二回とも泣いちゃったんである。姉妹が、かわいそうすぎる。
極端な形だが、これはもちろん「女性が老いてゆく恐怖」のメタファーであり、それを描き切った男性作家は楳図先生だけなんじゃないかと思う。

「おろち」は他にもサスペンスな「秀才」「カギ」「眼」「ステージ」、スプラッタ・ホラーの「ふるさと」、戦争中に飢えを凌ぐため人間の肉を食うのは是か非か?という究極の問いかけ「戦闘」など名作がギッシリつまっている。
是非続編として制作してくれないかなあと思っているのが恐怖の真骨頂・「骨」。
おろちの「よけいなおせっかい」で、死んだ男が墓から蘇り、徐々に身体を腐らせながら妻に復讐していくという物語。
しかし、墓石に堂々と刻まれているのが「三郎之墓」。ペットじゃないんだからってことで、ここはちょっと笑っていいと思う。


ショック映画十本ノック



絶望の野蛮な手触りだけが伝え得る真実というものだってある。
では我々は絶望の中で悲嘆にくれて過ごすしかないのだろうか?
まったく逆だ。
絶望と恐怖という新しい友人を得たと思えばよいのである。
彼らと楽しくやっていくコツだってある。笑うことだ。
(高橋ヨシキ)

ということで、レンタルショップにはまだ見ぬ友人や、久しぶりに会うことになる知人たちがゴロゴロいるというわけ。
暗黒映画に浸ってヘラヘラ笑う日々、開始。

【クリープショー3】(2006)
最初のクリープショーと間違えて借りた。オムニバスなので肩の力を抜いて観られる。
ホラーというよりはブラックなコメディ。しかし「1」のゴキブリゾロゾロのような強烈なエピソードは無し。

【ホステル3】(2011)
イーライ・ロスが監督した前二作と比べると、パワーとか捩れたユーモアのセンスがどうにも中途半端。
メーターなんか振り切ればいいのに。ホラーなんだから。

【遊星からの物体X ファーストコンタクト】(2011)
ジョン・カーペンターの有名な作品の前日談。
が、カーペンター版はSFXが凄まじすぎてストーリーをまったく覚えてなーい。
今回「ファーストコンタクト」をちゃんと鑑賞したのでザックリ言えば、誰が化け物なのか?という疑心暗鬼モノでした。
しかしこのCGによるクリーチャーも、観てると体が痒くなってくる。

【フレディvsジェイソン】(2003)
長年のファンならば夢のタイトルマッチだろう。本当にバトってるし、それ自体がギャグにもなってる。
しかし、ジェイソンはサクッと人を殺すし(「粉砕」という感じ)、フレディのキャラは妙にカラッとしている。
自分はもっと、陰湿なものが好みなのかも知れない。

【博士の異常な愛情】(1964)
これはホラーじゃなくて、気が狂った将校が原因で核戦争が起きるという話だが、当時の「冷戦時代」の感じが掴めてないと、もうひとつよくわからん。
映画としてそんなに面白いとも思われないし、これはきっとインテリゲンチャーの人が好む作品。
ただ、ストレンジラブ博士のキャラが立ち過ぎなので、リメイクを作ったら面白いのにと思う。
明らかに勘違いで付けられた邦題なのに妙に内容とマッチして、いまだに訂正されないという不思議。

【コレクター】(1965)
宝くじに当たった孤独な青年が地下室つきの家を購入し、前から想っていた娘さんを誘拐してそこに閉じ込める、監禁ものの古典。
「今にきっとボクのことが好きになるから!」というムチャぶり。
蝶の標本コレクションを見せてもドン引きされる。
サリンジャーやピカソは素晴らしいという彼女に向かい、「オレはあんたみたいにインテリじゃないからこんなの全然わかんねーッ!」とブチ切れ。
ヲタのメンタリティは普通の女子には理解できない、という悲しいお話。
佐野史郎の当たり役「冬彦さん」にそっくり。

【ケープ・フィアー】(1991)
邦題『恐怖の逆恨み』(いま付けた)。
レイプ犯(ロバート・デ・ニーロ)が、担当弁護士が自分にとって不利な仕事をしたことを知り、それを裏切りとして捉え、14年の刑期を終えて自由の身になったとき。
彼は、弁護士一家にじわじわと復讐を始める。
弁護士がなかなかロクデナシに描かれており、デ・ニーロは全身タトゥーだらけでマッチョで頭も切れるので、こちらに思い入れしてしまったりする。
デ・ニーロのキャリアとして語られることが少ないけど、極悪な名作。

【ファイナル・ディスティネーション】(2000)
これは拾い物。修学旅行でフランス行きの飛行機に乗る予定だった高校生の主人公が、フライト直前に機体が爆発することを予知し、降ろせーッと大騒ぎ。どさくさで六人が降ろされる。
で、直後、本当に大爆発。
助かった六人だが、本来は死ぬはずだった運命の歯車が回り始め、一人ずつ死んでいく。というか、運命に殺される。
主人公には「死の順番」も見えているので、そのルールにどうやって抗っていくのか?というお話。
殺人鬼もモンスターも出てこない。「死」だけがある。

【デッドコースター】(2003)
「ファイナル~」の続編。今度はハイウェイの大事故を予知した女子が主人公。
この玉突き事故のシーンがド派手で、いきなりテンション上がる。
トータル九人が生き残るが、やはり死の順番が回る。
前作にも増して、死に様がエグくてスピーディー。
「あっ、死んじゃった!!Ha!(笑)」と、モニターの前で笑う。
彼らのちょっとした行動が死に直結する。死神って、めちゃめちゃ手際がいい。
一作目とリンクしているので、続けて観ると楽しめます。

【サスペリア】(1977)
これはゴブリンの音楽と、原色を「これでもきゃ!」と使ったダリオ・アルジェントによる色彩感覚の勝利。
ストーリーは、ないっちゃ、ない。
いや、魔女がどうこうとか、あるけど、まあ、悪夢のMTVみたいなもんだから。
即物的な残酷描写で、日本でも大ヒットした。
「決して一人では見ないでください」のコピーが有名だが、当時かかったのは劇場だけだから「ひとり」ってことはないんだけどもね。


トータルで何人の死にざまを見たのだろう。
しかし映画の中ならば何人死んだってかまわない。それがスクリーンの花(華)になる。
それをみて手を叩いて笑うか、拳を握って怯えるか。
不幸せなら手を叩こう。

DEATH RACE 2000 in JAPAN



先日は銀座のヴァニラ画廊で行われているラブドール展示会・『人口乙女美術館』へ。
http://www.vanilla-gallery.com/
7体の演出されたラブドールと写真を展示。もんのすごく精巧で美しい。目はうるうるだし肌はつやつやだし唇もぴかぴか。でも、「生きてるみたい」とは思わない。生身の女子は目をはれぼったくさせていたり、唇がカサカサだったり、ムダ毛の処理を忘れていたりするからである。

池袋新文芸座で『バニシング IN TURBO』と『デス・レース2000年』の二本立てを鑑賞。どちらも低予算映画の代名詞のようなプロデューサー、ロージャー・コーマンによる76年の製作。
『バニシング』はロールスロイスをかっぱらって駆け落ちの爆走を続けるカップルに両親が賞金をかけ、それを手にしようとするドライバーたちが追跡を開始。カー・クラッシュに次ぐカー・クラッシュが始まる。
初めて観たが、これはつまんないです。だって誰も死なないんだもん。

『DEATH RACE 2000』!!!この作品をもはやB級とかクズ映画の範疇で語りたくない。それは劇場のでっかいスクリーンで体験すればわかる。マッドマックスの百倍は発狂していることを保障します。
まずどうでもいい車のイラスト(というか、もうちょっとどうにかならなかったのか?)が三枚くらいぺロッと映し出され、手描きのフォントみたいなタイトルへ。「これで何の映画化か分かるべ?」と、コーマン師匠の声が聞こえる。ムダに金を使うこたーない、ってか。
独裁体制の2000年のアメリカ社会。国民の意識をスライドさせるため(この辺の描写はほとんど劇中に出てこないが、別に問題ない)、年に一回アメリカ横断大レースが施行される。
本作が好きな人には繰り返しになるが、レースに参加する車がとてもカッコいい。バカカッコいい!レジェンド足り得るバカカッコよさ。
ツノをつけた闘牛仕様。ナチ女が操る黒い装甲車仕様。暴君ネロ(女)が乗るライオン丸。
ブレイク直前のシルベスター・スタローン演じる「マシンガン・ジョー」は本作で一番の直情バカであり、彼の車にはライフル二丁と巨大なナイフのトッピング(スタローンが主役のように刷り上げたポスターもしっかり存在する)。
主人公はミスター・フランケンシュタイン(デビッド・キャラダイン。※キル・ビルの「ビル」)。出場するたびに手足をふっとばすが結合して登場し、毎回優勝をさらう国民的ヒーロー。マスクと全身ラバーに覆われている謎の人。キバがついた凶悪なトカゲのようなマシンが痺れる(バカすぎて)。ジョーのライバル。
このレースにはポイントがある(ここ需要です)。走行中に人間をひき殺すと得点になる。男性や若者より女性、子供、老人などの弱者が高ポイント。
この国民的行事を潰そうとするレジスタンスも登場し、ドライバーたちにブービートラップを仕掛けて殺害を計画(この作品ではレジスタンス側が非国民扱いという、真っ黒いジョーク)。
五つのマシンが盛大に人々をぶち殺しながら行われる、年に一度のスポーツ・イベント!
血とヌードと爆発と爆走が山盛り。

あらすじはざっとこんな感じ。まあひどい。まあひどい。まあひどい。
たしかに現在のモラルからすればよく制作できたもんだと思う。が、チキチキマシンたちが跳ね飛ばし轢き殺しているのは、まさに「政治的な正しさ」とかいうモラルなんである。
映画はなにをやってもいい。「とてつもなく面白いものを見せてやる」という一点をクリアしてくれれば、それでいい。
二本を並べて思ったのだが、「バニシング」はいくら車がクラッシュしようが爆発しようが、誰も死なない。物見遊山感覚で事故を見ているようなもの。
それに対して「デス・レース」は、車とは走る凶器であるということを、嫌でも認識させてくれる。
そして、今の日本がこの作品に近づいている気がする。アルコールやあほんだらドラッグをキメて、ショーウインドゥに突っ込み通行人を轢く「リアル・デスレース」をやらかすクズがいるのはもちろんだが、2020年に行われる東京オリンピック、あれがデス・レースに見えてしょうがない。
ほとんど報道されなくなった原発事故だが、そっちが解決してないのに、なんでそんなことやるの?
国民の意識をさらにスライドさせるためなんじゃないの?
政府にべったりのレースを実況中継するアナウンサーが出てくるが、あれがアベにべったりの百田尚樹にダブる。
保育園の問題もあったけど、この国はやっぱり、子供や女性などの社会的弱者には優しくないんだね。高ポイントじゃなくて低ポイントなんだな。
ラストにフランケンシュタインの正体が明らかになるのだが、こういう人、出てこないかなあ。

ということを考えずとも、この作品が最高にアナーキーでオッペケペーなワイルド・ムービーであることに間違いはない。
リメイク版もあるけど、「ポイント制」の部分がすっかり抜け落ちているので全然ダメ。みなくていいです。


シンパシー・フォー・ザ・高橋ヨシキ



これほど「映画を観たい!」と思わせてくれる本は久々だった。高橋ヨシキ著『悪魔が憐れむ歌』と『続・悪魔が憐れむ歌』の二冊(どちらも洋泉社)。
「暗黒映画入門」とあるようにホラー・バイオレンス・カルト・やらせドキュメントといった「残酷で奇妙でねじれた」」作品ばかりが紹介されているので、もちろん万人向けじゃない。
だが著者が繰り返し主張する「映画が残酷で野蛮で何が悪い」「行き過ぎたショック表現は笑いを生む」に共感する者(簡単に言えば映画秘宝ファン)には、刺さってくるものがある。
何かというと叩かれるジャンルだがそれに対して高橋ヨシキは「みんなは何一つ間違ってない!」と、喝破してくれた。
検察官のような批評家は多いが、彼のポジションは完全に弁護士。考えてみれば今までこういう人がいないという事のほうがフェアじゃなかった。
風当たりも強いとは思うが、「このジャンルはオレが死守する」という姿勢のストロングさ。「政治的になんとか」みたいなクソ社会のモラルを否定するために、彼は「悪魔主義者(サタニスト)」を自称しているのだと思う。
だいたい「人が簡単に死ぬ映画なんかダメだ」みたいな戯言は、生涯まともに一本の映画も観たことがないようなバカにだって言える。悪いねー、オレはやっぱり、いっぱい人が死ぬところがみたいんだわ。
だったら『タイタニック』は?1500人も死ぬじゃんか。リア充を山盛りに乗せた旅客船が「まるっ」と沈むのを観て「キターッ」と泣く(盛り上がる)のだろ?それは悪趣味じゃないのか?
しかも溺死。殺人鬼ならば「いいひと」に当たれば、サクッと一発で殺してくれる。
とか書いているがもちろんジョークであり、こうしたジョークがわからない人にはこの本で紹介されているような作品は理解できない。要するに心の余裕がちょっとだけ必要ってこと。
ちょいちょい「ぶっ殺せ!」「みんな死ね!」みたいな語彙を使うヨシキ氏ではあるが(この著作ではさすがに少ないけど)、行間の読めない人に言っておくとそれは「リップサービス」なのであり、「もっと映画を楽しめよ!」ってことなんである。おわかりか?

ホラーなんてのは特に、有名な俳優はいないし予算も組めない若者でもアイディアと情熱があれば、鮮烈な作品を作ることも可能なクリエイティブなジャンルなので、DIYの姿勢も含めパンク的である。
『悪魔のいけにえ』撮影時の灼熱地獄、『死霊のはらわた』撮影時の極寒地獄(「続」に詳しい)といったリアルな地獄を乗り越えたクルーたちの作品は、スクリーンに地獄の花を咲かせてくれた。
昨今も「ムカデ人間シリーズ」を世間にぶちまけたムービー・テロリスト、トム・シックスなんてのが登場しており、まだまだセックス・ピストルズみたいな爆弾を抱えた連中がウロウロしている。素敵じゃないか。
ちなみにホラーに良心なんかいらないので、ここにクラッシュはお呼びじゃないのだ。クラッシュは「不発弾」だから(そこが好き、なんだけれども)。

何か起こると影響力が云々と言われるのは『13日の金曜日』などの有名な作品だが(サカキバラの時もそうだった)、正直なところマッチョな怪人が若者を殺していくという展開がローティーンワークというか、なんだかフィジカルでさえあるよなあというイメージであまり興味がなかった。「エルム街」のフレディに至ってはおしゃべりでウザい親戚のおっさんって感じ。
が、この二冊を読んで考えが変わった。「自分が好きなのはああいうのじゃないんで」といった言い訳を封じるためにも、13金もエルムもちゃんと観ておこうと思う。
(いま手元に『フレディ対ジェイソン』がある。こりゃ、ドリームチケットですね)
サカキバラといえば元少年A名義の『絶歌』が売れまくったという事実のほうが、よっぽど狂ってるし忌まわしい。あの本を買った人間に「つくりもの」を糾弾する資格は一切ない。

だがしかし、世間様はこのようなジャンル・ムービー鑑賞より楽しいことがあるらしく、それはカラオケ/合コン/ドライブ/温泉旅行/テーマパーク/デイト/おしゃれカフェ/家族間の信頼など、枚挙にいとまがない。
でも大丈夫。我々にはタランティーノやイーライ・ロスや三池崇史がついていていい人も悪い人も分け隔てなく血祭りに上げてくれる。
少なくともオレは自分の人生がクソだから、映画を観たり音楽を聴いたり本を読んだりしている。
彼らの表現の「邪悪さ」を糧にして、どうにか自分もタフになろうとしている気持ちが多分にあるのだと思う。
あたらしく「悪いもの」を知ると、嬉しい気持ちになる。「人生が楽しい奴らはこんなの知らないだろ?ざまあみろ」っていう気分。鼻持ちならないと思ったら放っておいてほしい。こっちにはこっちの楽しみかたがあるのだ。

ミシェル・ファイファーのキャットウーマン&『愛の嵐』のシャーロット・ランプリングをプリントしたカバーは「乗るかそるか」を一瞬で要求する。すんばらしい装丁だ。内容も然り(正直、自分の頭には難しくてよくわからない章もあるのはあるが)。
最低すぎて市場にほとんど出回らない伝説級のクズ映画(パッケージすら見た事がない)『悪魔のしたたり』をこれほど愛情と尊敬をもって書かれた文章は空前絶後だろうと思う。なにせ『ロッキー・ホラー・ショー』と同列に語っているのだから。
モンドの巨匠・ヤコペッテイに対する揺るぎないリスペクト、『エクソシスト』に関する詳細なルポ、マニアだからこそ一発で通じる監督たちへのインタビュー。引用される作品の多彩さでもわかるが、グロだけじゃなくあらゆるジャンルを知り尽くしている。本気で映画が好きな人だ。
特に『バットマン・リターンズ』に関する考察力にはため息すら出た。
まえがきもあとがきも最高としか言い様がなくて、特に「続」のまえがきは涙腺がゆるみそうになる名文であり、堪えながら引用。

光が照らし出してくれるものは愉快なものとは限らない。
ゆらめく光は美しいものや気高いものを映し出す一方で、醜悪でおぞましいものの姿も浮かび上がらせる。


(略)そういう便利な「光」のさすことのない、薄暗い世界にとどまり続けるぼくのような種類の人間は「哀れ」で「気の毒」な人たち、と「明るい」人たちの目には映る。
本書はそういう明るい世界に向けて拡声器で怒鳴りつける「ファック・ユー!」である。




しかし、ゴールデンウィーク中になに書いてんだろ。

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