声優の野沢那智さん死去。個人的には『チキチキマシン猛レース』のナレーターの人である。
ナレーターとブラック魔王がやりあったりして、いわゆるメタフィクションの先駈けというか、「ひょうきん族」や「みなさんのおかげです」の元祖的なアニメ。一着ヒュ~ドリク~ペ~♪
今のアニメ界は萌え~ばっかりで、モダーンは消滅した。そんな意味でも合掌。
少し前には任侠ものでお馴染みの俳優・池部良さんも亡くなった。この人は髪型からルックスからスタンス的なものから、哀川翔兄貴にとても似ていたのであった。
「猟銃自殺」という元祖カート・コバーンな死に様を見せた昭和のクールガイ、田宮二郎の作品を二本観賞。
『黒の試走車(テストカー)』と『黒の超特急』(ともに監督は保造さん)。
「試走車」は新作スポーツカーを巡る、メーカー同士によるスパイ合戦を描いたもの。
当時は「サラリーマン・スリラー」と呼ばれていたらしい。イケイケの上司・高松英夫の下でスパイ探しに奔走し、苦悩するジロー。緊張感のある展開がなかなかよろしい。
「超特急」は土地売買を巡るペテンにかけられた不動産屋のジローが(安く土地を買われ、そこを新幹線の通路にするため、高く売られちゃったんである)、「グヤジー!」と、新幹線公団理事の二号さん(藤由紀子。ジローのワイフ。すんげ美人)と組み、詐欺師の中小企業社長を相手にユスリを働くこうとするが、向こうの方が本物のワルなんで、一枚上手ってなストーリーか。
なにかにつけて「嫌だ!」「ちくしょー!」と切れるジローがロックだ。
どちらにも同じような役回りで船越英二が出演している。「押しの弱さ」を演じさせたら、この人の右に出るものはいない。
60年代高度成長期いけいけどんどんの裏側を描いた「黒」シリーズ。トータル11作が製作されている。
田宮二郎氏の自殺の原因は鬱病によるものらしいが、ある程度の仕事をやり尽くした人間の自決なら、肯定してもいいような気がするのである。
よく「孤独な老人の悲惨な自殺」と報じられることが多いが、それくらいの年齢まで生きたのならば、決定権は自分が持っていてもいいんじゃないか?と思うのはバチあたりだろうか。
『ぼくは12歳』なる、自殺した小学生の詩集が隠れたベストセラーだったりするんだけども、精通があるかないかくらいのガキが「天才ぶって」死んでんじゃねえよ。物を書くよりセンズリかくことを覚えろよ。そうすりゃ死なねえよ。なあにが「夭折」か「繊細な感性」か。自分がヒトラーだったら確実に「焚書」だ。
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人はなぜ刺青をするか、というのは深遠な問題だが、人はなぜ刺青をしないかというと、痛いし、手間と金がかかるし、消せないし、おとーさんに怒られるし、会社の慰安旅行に行けないし、普通の彼女は作れないし等々の諸問題ゆえ、要するにつらそうだしアフターがめんどくさくてやだ、といったところであろうと。
以前バイトで首筋や腕から指にかけて墨を入れたバンドマンと一緒になったことがあって、さぞや全身はすごいのであろうと思っていたんだが着替えの時に見たら、二の腕から先はびっしりなんだがあとはきれいな体で、これって結局人に見せるための刺青じゃんと、少々引いた覚えがある。
それとは逆に全身黒一色の総身彫りなんだけど、二の腕から先には入れていないので、半袖のシャツを着ている分にはまったくわからないという人もいて、こっちの方が全然カッコいいんじゃないかと思う。
タトゥー雑誌なんかでみなさん自慢の彫り物を披露しているが、少なくとも日本人なら知っているようなキャラを入れる際には、腕の立つ彫師を選ぶべきではないかと。
時々、台湾の海賊版みたいな「ルパン三世」とか「キューティーハニー」とかのタトゥーを得意げに見せている若者がいるが、あれは自分を「バッタモンです」と名乗っているようなもんなので、先々のことも考えるとっちょっとどうなんですかね?大きなお世話だが。
なんでこんなことを書いてるかというと、谷崎潤一郎原作・増村保造監督・若尾文子主演の『刺青』を観たからなのだが、この映画はパンクである。
駆け落ちしたおきゃんな若尾さんが芸者に売られ、背中に女郎蜘蛛の刺青を彫られ、男を食い物というか、殺人教唆までするような肝っ玉姐さんに成り上がり、そして破滅する。
女郎蜘蛛の刺青ってのがまた微妙にチープで、ここにも「D・I・Y」のパンク精神が生きている。
駆け落ち相手の彼氏(チョンマゲですが)のヘタレ、腰の据わらなさ加減もいい感じ。
「おれの愛人になれ」と迫る武士の佐藤慶はやはりカッコいい。
「増村保造」と「町田町蔵」はついうっかり間違えてしまいがちなのだが(ですよね?)、どちらもパンキッシュな精神の持ち主であることに間違いはない。
ついでに伊太利亜スプラッターの大御所、ルチオ・フルチの『ビヨンド』ってのも観てみたのだが、さっぱりわけのわからないストーリーについていけず、昏睡状態になりました(スコアは素晴らしいんだけどねッ)。
60年代にもこの手の映画を量産したハーシェル・ゴードン・ルイスなる監督もおりまして、彼らに共通するのは「グロければグロいほど好き物の客が来るんだから、そこだけサービスすればよい」というヤマっ気であって、要するに商売人。
硫酸で顔を溶かされたり、目玉をえぐられたり、犬に喉笛を食いつかれたり等の残虐場面は満載で(だったような気がする)、こちらの方をハードコアな人々は支持しそうだが、作り手側はきっと「牛乳を飲んでいるときに変な顔してブッ!と吹かせる小学生」みたいな人たちである。それがプロになっただけ。
物事の本質ってのはそういうもんであります。
白塗りで血糊を吐き火を吹くKISSはパンクか?違うだろ。
吉祥寺には安く飲める店がない、というのは由々しき問題である。いせやはテーマパークみたいなもんで、並ばないと入れないしな。
アトレ吉祥寺がオープンったって、別に関係ないっつの。成城石井?いらんいらん。西友で間にあっとる。
何より実は好きだった台湾料理「わんわん」が撤退させられちまったのがムカつくんである。「お洒落」に侵食されすぎだ吉祥寺。
たまに阿佐ヶ谷で安い焼きとん屋とかで飲んだりするとホッとする。「一串80円文化」は大事だ。
で、いい感じに場末感をひきずって、ラピュタのストリップ映画特集の『実録ジプシー・ローズ』ってのを観てきたのだけど、要するにこの人も破滅型の天才であったのだろう。。激しい腰のグラインドで一世を風靡したが、酒に溺れて落ちぶれて急死。享年31歳。
主演のひろみ麻耶という女優さんが顔も体もまん丸で、昭和チックに妖艶。ピンク映画なもんで、場面転換のたんびにやりまくってますが。
多分当時のストリップショーにおける高揚感は、今では味わえないものだったのだろう。観客のやんややんや加減は、映画的な演出だけではないと思う。
一人では歩くこともあやしいローズが、呆然と腰を振り続ける最期ショーの有様は、ルースターズ脱退直前の大江慎也の彼岸な雰囲気を思い出した。
「一瞬輝く」という命題を背負ってしまった人には、多分人生31年でも長すぎたのだろう。
肉体表現に重きを置く人生に置いて、身体の衰えというのは避けられない問題ではあるけれども、こればっかりはどうしようもない。
「孫を抱きたい」というまっとうな願いを持つ人は長生きすべきだとは思うが、そういった輪廻がめんどくさくてしょうがないという人間には、コップの水が溜まればこぼれるようにサクッと逝けるシステムを神さんは導入するべきだ。しくよろ。
語らない、というのは実はすごいことで、「語っている」時より「語ってない」時の方に説得力がなければいけないのであって、やっぱりタモリ氏は偉大なのである。
ビートたけしがコメントや本でさんざん語って、若い衆をまとめて親分的存在だったりとかも込み込みでのカリスマであるのに対し(軍団の中で最狂メンバーは「つまみ枝豆」らしい)、タモさんは仕事が終わればスーッと日常に消えていくような静かさがある。「カリスマ性?必要ないっしょー?」とグラスをカラン。
山下洋輔が、「テレビのタモリは必殺技が使えない格闘家のようなもの。それでも勝負できるところがすごい」と語っていた。
毎日「お友達を紹介する」仕事をしているのに、自分のプライベートな交友関係をおおっぴらにはしない。
親しげによってくる若手ラッパーあたりなんぞ実は、失明している右目で相手しているようなもんなんじゃないかと思う。
「芸人は破滅すべし」的な美学がまだまだまかり通っているのに、タモリ氏は勤め人のように淡々とテレビに出る。
出演する番組をほとんどヒットさせ、そしてきれいさっぱり忘れさせ、誰でも知っている有名人なのに、この人の思想信条経歴など誰も知らないし、とにかく本人が語らない。
やはりジャズの美学に生きている人である。どジャンキーのくせにそれをまったく感じさせないメロウなボーカルとペットを聴かせる、チェット・ベイカーにちょっと被ると言ったら言い過ぎか。
実は82年のタモリ主演作『キッドナップ・ブルース』を観てきたのである(@例によって阿佐ヶ谷ラピュタ)。
売れなくなったジャズミュージシャンが、近所の鍵っ子の女の子と一緒に二人で旅をする(傍目に見れば誘拐)
というだけの話。
監督は写真家の浅井慎平で、結構な長期ロケ。当時も売れっ子だった彼の身柄をよくここまで押さえられたもんだと思う。
映画を観れば分かるが、ヒットさせようという気なんかさらさらない、ロードムービーであります。
タモリは女の子を連れて旅をしているからといって何がどうなるわけでもなく(むしろ指名手配される)、もちろん女の子も何か事態が好転するわけでもない。
子供をあまり子供扱いしないタモリと、甘えるそぶりを見せない子供の関係が淡々と続いていくのみ。
ふたりはどこまで行っても孤独なのだけど、それでも一緒にいる。
泣かせるような落しどころはまったくないんだけど、思い返すとなぜか胸がかきむしられるような一本。
ゲスト的な出演者もたくさんいるのだが、特に野外に捨てられたピアノで超絶的なフリージャズを弾く山下洋輔と、「酒は、うまいよなあ」と、最高の笑顔を見せる川谷拓三は印象に残った。てか、やられた。
これが彼の本質です、とか言う気はさらさらないんだけど、「まあ、こんなのもありっしょ?」とタモリ一流のうつむき加減なダンディズムを感じられると思う。もちろんサングラス越しの。
ラストに流れるタモリ歌唱による『狂い咲きフライデイナイト(だと思った)』は、マジでカッコいいですよ。
「生き恥を晒すより いっそあの世へ旅立つさ」という主題界のとおりの作品。
梶芽衣子in『ジーンズブルース 明日なき無頼派』@阿佐ヶ谷ラピュタ。
べつに作品が素晴らしかったわけじゃないんだが、梶芽衣子さん(略してカジメイ)がやっぱり素晴らしいのだった。
ハプニングバー経営のどんづまり女のカジメイと(「どーでもいいんだわ」と煙草をくゆらす姿がすでにカッコいい)、殺しのチームを裏切って報酬を一人でガメてバックれたチンピラの渡瀬恒彦が偶然出会い、行き当たりばったりの逃避行が始まる。
日本版の「ボニー&クライド」を撮りたかったようなのだが、渡瀬の泥臭さがまずカジメイと釣り合ってない。
全身レザーがビシッと決まるカジメイに対し、全身チェックのワタセッツァーがぜんぜん決まってない。
というかこの時期の男優で、カジメイと釣り合う男が見当たらないのである。
(そういう意味で、登場した男どもを殺しまくる「さそり」は正しい!)
内田良平・拓ボン・室田日出男の殺し屋トリオもとことんいい感じにマヌケ。いつでもどこでもイロのおっぱいをしゃぶるボスの内田良平が最高。
若い頃のカジメイは常に死のにおいがまとわりついていて、それが唯一無比の「彼岸の色気」を醸し出している。
ラストは射撃隊に額を撃ち抜かれて見事に死ぬが、カジメイが劇中で死ぬ作品って珍しいんじゃないだろうか。
いま活躍中の女優さんやグラビアさんも「かわいいなあ美人だなあエロいなあ」と人並みに反応するのだが、つい「実際にしゃべったら、きっとつまんないんだろうなあ・・・・」とか思ってしまうんである。
この手の邦画が好きな理由は、「ああこんな美人がいたんだ」「この人も若い頃はこんなに美人だったんだ」と、すでに「無いもの」へのファンタジーだからであり、特にカジメイなんかはリアルな生臭さのない、完璧な「美」である。