『ピンク・フロイド ザ・ウォール』鑑賞(@バウスシアター爆音レイトショー)。
10年ぶりくらいに観たが、緻密な狂気というか、ゴージャスな悪夢を堪能して参りました。
ピンク・フロイドってのは高校時代の友人がはまっていたおかげで、パンクと平行して聴いていた唯一のプログレだった。
プログレってのはコズミックとかファンタジー方面に行きがちなので苦手なのだが、このバンドは人間のダークサイドに視点を当てた作品が多かったと思う。
特にそれが顕著だったのが「ザ・ウォール」。人間はそれぞれ自分の周りに壁を築いているのだから分かり合えるわけがないという主張のアルバムで、これはその映像版。
ロックスターが絶望の淵に見る狂気を映像化、みたいな言い方がもっともらしいが、つげ義春の「ねじ式」を解説してもしょうがないのと一緒で、この禍々しさにのるかそるか?ってこと。
挿入されるグロテスクなアニメが秀逸で、特に戦闘機のような巨大な鳥が飛翔し、ユニオンジャックがバラバラになって真っ赤な十字架が出現するシーンには体がぞわぞわした。http://www.youtube.com/watch?v=93YN7xjCjBM&feature=related
後半はモロにナチスの党大会やクリスタルナハトがモチーフ。表現としてギリギリまで行ってやろうという向きにとって、ナチってのは格好の素材なのだろう。http://www.youtube.com/watch?v=YAlVEbjusLk&feature=related
この辺になると主演のボブ・ゲルドフがドはまり(嶋田久作にクリソツ)。ちなみに後の「ライブ・エイド」の主催者で、博愛の人として有名になる方である。
全編に流れるフロイドの重苦しいナンバーが心地よい。たまには毒風呂にぬくぬくと浸かってみるのもオツなもんでやんす。
しかしピンク・フロイドって本国ではモンスターバンドだったが、この厭世的な世界観を持つ曲たちが爆発的に受け入れられたってのは不思議。
が、熱狂するオーディエンス・大ヒットを記録したアルバムセールスに対し、ロジャー・ウォーターズみたいなシニカルな人間は「け。俺の悪意と絶望を喜んでやがる」と、ますます厭世的になり、結局バンドなんて意味がない、解体!となったことは想像に難くない。
ロック・ミュージカルの傑作として名高い「ロッキー・ホラー・ショー」も「ファントム・オブ・パラダイス」も、どうにも手ぬるい。コスチュームばかり過激で大したことないわ、と感じてしまった自分にとって「ザ・ウォール」は、最も残酷なロック映画として殿堂入りしたのであった。
梶芽衣子さんが好きなもんでな、どうしても見直してしまうんだな、「女囚さそり」シリーズ。
好きな順位を上げると三作目→一作目→二作目。監督が変わった四作目はこの際除外。
一作目はカジメイの乳首が見られるというオプションがあるが、基本的に刑務所内での密室劇であるので、比較的破綻は少ないが、演劇的。そして五分の一くらいは女囚たちが「穴を掘っている」不思議な映画である。国家権力への悪意もハンパでない。
二作目は集団逃亡劇。さらにアングラ演劇空間。
一作目は「ハッタリ」の映画だが、三作目『けもの部屋』はもう、デタラメであります。
テーマは「さそりを野に放て!ー動乱ー」。
電車の中で手錠をかけた成田三樹夫(ヤクザか鬼刑事の「二つしか性格がない性格俳優」として有名な方)の腕ごと出刃包丁でぶった切り、血まみれのそれをぶら下げたまま街を逃走する松島ナミ(さそり!)。
まるでライブ告知のような指名手配写真が構内の壁中に貼ってある演出がクール!
すげえオープンニング。映画ってのは出だしで胸倉を掴んでくれなきゃダメだ!
で、さそりはいわゆる白痴の兄と近親相姦の関係にあるパンパンと出会うのだが(放送禁止用語を連発してる気がするんだがこのブログ大丈夫か?)、そのシーンがまたぶっとんでる。
つながれた手錠の鎖を切るため、真夜中に墓石を使って血まみれの腕を持ちながらギーコギーコしているんであります。白目を最大限に有効活用する女優魂!
そんなカジメイも凄いが、「お針子さん」としてミシンを踏んでいても、ボロアパートに住んでいても、やっぱり美人は美人!
そして女ボスの李麗仙。檻でカラスを飼い、特撮の悪役のような、とんでもないギラギラ星人として登場。売春組織の冷酷な管理職。何かしらの賞を差し上げたい。
次々と男を血祭りにあげていくさそりは究極のクールビューティー。特に「カラス」を使った殺人が凄いわ。
『死んだ女の亡霊が、あたしに取り憑いたんだよ』。
ブルーのパーティードレス(?)で下水道に逃亡し、そして生き残るさそり。
およそこの辺からさそりという「概念」が一人歩きし始める体なので、あとはもう書かなくてもいい。つまり、観ればいいんである。
マンホールから落とされるマッチの演出が憎い。
ちなみにタイトルの「けもの部屋」は、近親相姦を繰り返す兄妹が住む、バラック小屋を指すのだと思う(その家並みは、なんとなく部落っぽい)。
掃除用具(モップ)のアップから、さそりのポスターが次々と燃え落ちるラストシーンで、「女囚さそり」はこの三部作にて完結!でしょう?
黒髪。真ん中わけ。三白眼。ロングコート。出刃包丁。ノン・ダメージ。すうさい堂の看板=さそり。
「あのすばらしいトラウマをもう一度」ということで、たまに昔のホラー映画を借りたりしているのだが、70年代独特のいい味は出ているのだけれども、今観るとなんとも「もっちゃり」していて、怖くはないのですなー。
先日も『悪魔の沼』と『悪魔の墓場』を鑑賞していました(この当時のトレンドは「悪魔」だったらしい)。
『沼』はトビー・フーパーの二作目。超絶的な名作・『悪魔のいけにえ』で世界中に衝撃を与え、与えすぎてそれより恐ろしいものが思い浮かばず、少々頭のおかしいモーテル経営者が巨大ワニを飼っていて、人を殺して食わしていたらどうよ?と撮ってみたところ大失敗、てな風情の作品。
それでも原色の照明や安っぽいアナログシンセによる音楽、どんな非道なことが行われていても鳴り止まないモーテルのBGM(カントリー)など、好事家はそそるのかもな。普通の映画ファンは押さえる必要なし。
『いけにえ』で唯一生き残った女優さんがここでもおんなじよーな目にあって、ギャーギャーわめいています。
『墓場』はユーロトラッシュというジャンルらしいのだが、イタリアとスペインの合作ゾンビ映画。
害虫駆除機の超音波で死体が蘇りひとを食う。70年代のパニック映画は「超音波」だの「電流」だのが原因で何かが(何でもいいんじゃない?)凶暴化して、人間を襲うというパターンが多かった。
(究極はゴカイ(釣りのエサ)の大群が町を襲うってのがあったが、あれは生理的に一番怖気を奮うシャシンであった。『スクワーム』って作品だから、時間を無駄にしたい方は観たらよろしい)
もっさりしてるんだけど腕力があるゾンビが「もーぐもーぐ」とお食事するお話です。
本家ロメロのゾンビは人間側からもゾンビを攻撃し、やったりやられたりのスリルがあったもんだが、襲われるだけでは大して面白くもありません。あ、バイカー出てこないじゃん!最近のやたら俊敏になったゾンビ映画にちょっと辟易している向きには、「ああ古典はよいねえ」とまったりできるかも。
そしてこの辺の映画のポスターやジャケットは異常にカッコいいのである。
「お!」と思ってもすみやかに元の位置に戻してください。中身が外面を越えることは、ほとんどありません。
そして実はこれが目玉だったのだが、『プラネット・テラー』。ロバート・ロドリゲス、やっぱ最高だ。
アメリカではタランティーノの『デス・プルーフ』と二本立てで公開されたらしいのだが、悪ふざけの二大巨匠だけあってそろってわざと画面に傷を入れたり、『テラー』ではベッドシーンで画面が燃えて、「一巻消失。申し訳ありません。支配人」なんてテロップが出たりする。
これもゾンビものなんだけどホラーというよりB級アクションで、えぐいんだけど笑える。
片脚を食われたゴーゴーガール(ローズ・マッゴーワン。エロい!)が、ない脚にマシンガンを装着し、ゾンビどもを撃ち殺す!
どうやって発射させてるんだ?とか言い始める物理野郎はファックだ!最高の絵じゃないか!テーマは「それだけ」だ!!
看護婦役のねーさんも(エロい!)注射器をピストルのように扱ったりしてステキだ。
金玉をコレクションしている科学者、珍宝をドロドロ腐らせながら襲ってくるタランティーノ、どんなときでもソースのレシピを考えているステーキ屋とか、登場人物の少なく見積もっても6割強はバカ!
こんな映画に結構重要な役で出てるブルース・ウィリス。スターもやっぱり「ガス抜き」がしたいんだと思う。
くだらないって言うな。真剣に遊ぶのが「大人の映画」だろ?大人は「うっとりしたい」んじゃないんだよ、「騙されたい」んだよ。涙なんかもう枯れちまったよ。
なるほどこうしちゃったのね、というのが若松孝二監督『キャタピラー』を観た感想。
戦争で傷痍軍人となった夫が帰還。ただしその姿は四肢切断、顔面ケロイド、声帯もやられ耳も聴こえず、無事だったのは脳と眼、そして性器。
自分を称える新聞記事と勲章を眺め、夜毎妻と激しいおセックス様(ジョージ秋山風)に興じる。本能つまり、食うこととヤルことだけのために生きている。
といったプロットは江戸川乱歩原作の『芋虫』と同じなのだが、乱歩はあくまでも「究極の苦痛と快楽を描きたかった。反戦を訴えたつもりはない」と言っていたのだが、この作品はラストに元ちとせの「反戦歌」を持ってきたりして、割とまっとうな反戦映画に仕立てていた。
原作を未読でいきなり鑑賞したらすごい衝撃かも知れないけど、乱歩好きの諸氏は「自分たちが見たかったのはこれじゃなーい!」と思ったのではないでしょうか。
それに、いきなりオープニングから四肢のない「芋虫状態」で登場するのもいかがなものかと。
観客は最初から「そういう人」とインプットされてしまい、結局鑑賞しているうちに馴らされてしまう。あんまりうまい演出じゃないな、と思う。
原作ではたったひとつの意思表示として残っていた「片目」を、妻が衝動的に指で潰してしまう。
苦しさにのたうち回る夫を抱きしめて何度も「ごめんなさい。許して」と泣きながら訴える妻。
翌日「ユルス」とだけ書置きして、夫は井戸に身を投げて自殺する。
乱歩が描きたかったのは夫婦間の快楽と地獄であり、あくまでも個人的なものだった。
未読だが、同じ猟奇者であるところの丸尾末広がこの作品を漫画化しており、こちらのほうが相性がよろしいのではないか。
映画なんてものは別に「納得」させてくれなくてもかまわない。びっくりさせてくれればいいんである。モラルとかもあんましいらないと思う。
そういった意味では、ぶっ壊れる寸前でストーリーが進行し、笑いとグロテスクが背中合わせ、問題が多すぎるため国内ソフト化不可という、石井輝夫監督のガレージパンク映画・『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』は、最強であります。
何にしても「猟奇」を映像化するのは難しい。やりすぎるとギャグになるし、メッセージを込めると「耽美」が薄まる。
画像はネットで拾ってきた昭和の文庫本「芋虫」のカバーだが、これほど味わい深く、この作品の世界観を一枚絵として完成させたものは、ちょっと他にお目にかかれないと思う。そのまんまだけど。
それにしてもヤバいだろうコレは。昭和ってちょー過激。
若尾あやまんJAPAN主演、『悶え(監督・井上梅次/1964年度作品)』鑑賞。@阿佐ヶ谷ラピュタ。
バージン若尾が結婚した相手は不能で、まわりのヤリチン青年や(川津祐介)「翔んでる女」(江波杏子)、人工受胎をめぐるドロドロにはまっていくという、なんつうかその「インポテンツ・サスペンス」。
そもそも新婚の時点で既にセックスレス、というパターンも少なくない平成から考えると、処女妻が新婚初夜で旦那に身を捧げる、なんてのはもはやファンタジイである。ますむらひろしかっ、て話である。そこはアタゴオルなのかっ、て話である。
一番の見所は、欲情した旦那が若尾妻に挑みかかるのだが、いきなりそのシーンはバックが真っ赤にライティングされ、「渦巻き」がぐーるぐーると回りだす。いやちょっと、笑いをこらえるのが大変でした。
当時の芸術祭参加作品らしいのだが、実際のところ「エロ」を求めた観客がもじもじと鑑賞していた様も容易に想像がつく。きっとそうしたカムフラージュも必要だったのだなあとも思わせ、タイムカプセルのような一品である。
若尾さんの「元祖盛り髪」や昭和ファッションもシャレオツであります。