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すうさい堂の頭脳偵察~ふざけてません。

すうさい堂は閉店しました。17年間ありがとうございました。

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伸るか反るか、究極の悪魔



「究極の悪役」ってことを考えてみる。カッコよさ、とか、悪の美学、とかではなく、「嫌さ」を基準にしてみる。
一番はやはり『ソドムの市』の四人のファシストたちだろうか。美少年美少女を奴隷にしてハレンチ騒ぎ(スカトロ込み)。自分たちの快楽以外はどうでもいい。特に内田裕也似の「大統領」がキモい。しかも誰も成敗されず、祭りは続くのでした、で終わり。うわーっ最悪。
『悪魔のいけにえ』のソーヤー家も嫌だ。言葉も喋れない電ノコ野郎のレザーフェイスが、実は一番「話が通じる」ってところがキモ。怒られればシュンとするし、楽しい宴の席ではチークを入れたり(おっしゃれー)、ちょこっとだけなら人助けもするので、「人間味」もあったりする。
ところが家長である父親は一見好々爺で会話もできるが、いかんせん「まったく話が通じない」。
なおかつ子供のように無邪気に残酷さをぶつけてくる。すっぴんの狂気。
『ムカデ人間2』のマーティン君はどうだろう。文字通り「人と人を繋いで」みたくてしょうがない知的障害者。しかもそれをホームセンターで揃えたような道具で、おぞましくも実行に移すのであった。
そして彼がブリーフ一丁になった時の姿はえ?CGか?と思わせる、「日野日出志のマンガから抜け出したような」ある意味で芸術作品。
「ああ自分はまだ普通だ、アートじゃなくてよかった」と心から思えてくる。

デビルズ・リジェクツとは「究極の悪魔」という意味で、そんな輩を主人公にしたのが『マーダー・ライド・ショー2~デビルズ・リジェクト』(2005)。ミュージシャンでもあるロブ・ゾンビ監督作『マーダー・ライド・ショー』の続編。
「マーダー~」はロブ先生の頭の中の花やしきという感じの、サイケでカラフルなホラー作品。表向きは殺人鬼博物館を経営しているが、裏で日々楽しく人をぶっ殺していたのが「ファイアフライ一家」で、犯行が明るみに出てしまった彼らは警察に追われる身となる。その逃亡を追うロードムービー。ジャンル的にはホラーからかなり逸脱する。
彼らに兄を殺された保安官が「神の意思」を持って一家襲撃を指揮するが、母親以外は逃げ切る。流れるサザン・ロック。この幕開けがもうカッコいい。
そして親切なおばさんが長男・オ-ティスと妹・ベイビーによってメッタ刺し。車を手に入れるためである。
このオープニングですでに振るいがけが始まっている。「これから登場するのは究極の悪魔だ。あんたはついて来られるのか?」というわけだ。
まず兄と妹はカントリーバンドマンの一家に侵入して全員を殺害する。ノーパンでズタボロのジーンズをたくし上げるベイビーのエロさに大概の男は家に入れてしまうのであった(ちなみにベイビー=シェリ・ムーン・ゾンビはロブ・ゾンビの嫁さん。同じ姓を名乗るとは、意外と古風な夫婦)。
これがまるで弱肉強食の世界で、二人の残虐行為が自然界における「捕食」を見ているようなのだ。弱いものは餌になる、などと考えているうちにあれ?おかしいな?と思ってくる。
後に兄妹は父親のキャプテン・スポールディングと合流する。車で逃亡中に父と娘は「アイスが食べたいから止めろ」と言い出し、息子は「だめだ」と口論になる。結局アイス買ってるんだけど。
このシーンが妙にかわいらしいのだが、罪のない一家を皆殺しにした直後の話なのである。
おかしなことに、この超残酷な連中が魅力的に見え始め、実は感情移入が「とっくに」始まっている。

父親の弟が営む売春宿に一家は身を隠すが、ならず者たちを雇って保安官は彼らを捕らえ、一人一人を拷問にかける。
こうなると「神の意思を持つ、法の番人」である保安官が世にも残酷な悪魔に見えてくる。
完全にロブの手のひらで転がされているのだけど、感情移入しているのはファイアフライ一家なんだよなー、という自分を発見するのだ。
いや、そんなことはない!という人もいるだろうが、その人は確実にこの映画は大嫌いですね。
主人公たちを究極の極悪人として描いているのだが、にもかかわらず、彼らはキュートでファニーで魅力的!こんな作品は他にないと思う。
『俺たちに明日はない』も『ゴッドファーザー』も実は主人公の「本当の悪の部分」を描いていないから、名作・古典として受け入れられている。実際のボニー&クライドは十三人も殺しているし、ドン・コルリオーネは自分の手は汚さないが、彼の一言で殺人が行われ、朝起きるとベッドに馬の生首が転がっている。
『デビルズ・リジェクト』はこの矛盾をチャッチャとクリアしてしまった、実はとんでもない作品なんである。
もちろん伸るか反るか、ではあるのだけど、反った人とはどうやっても平行線。なので、さようなら。
一度乗せられてしまうともう止まらない。血みどろのラストには大感動。初見はボロ泣き致しましたが、そういうボンクラは世界中にたくさんいるはずだ!
実質上の主人公であるスポールディングはハゲデブ親父だし、オーティスはむさくるしい長髪のヒゲ面。※うん、ベイビーはすごくかわいいな。
スタイリッシュさでいえば『ダークナイト』のジョーカーや『ニューヨーク1997』のスネークなんかの方がずっと上なんだけど、「気持ちの持っていかれ方」で言えばファイアフライ・ファミリーの圧勝。
確実に構造的にはおかしいし、どうかしている。それはわかっている、のだが。・・・・・最高。
要点しか書かなかったので、乗れる方々は是非。




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史上最低って最高



「史上最低」。甘美な響きである。が、何を指して史上最低と呼ぶのか。あまりにもチープな稚拙さか。あえてモラルに揺さぶりをかける過激な表現か。あるいは目を覆うような「志の低さ」か(これに関しては見えづらいがものすごく多いような気がする)。
エド・ウッドとは自分の映画監督としての資質(の無さ)をまるで気にすることなく進み続けて、ひたすら「映画を撮る」という行為を続けたひと。ティム・バートンは溢れんばかりのリスペクトで彼の伝記映画『エド・ウッド』(94)を撮った。
エド・ウッドにとって最重要なのは「自分が映画監督であること」。メガホンで現場に立っていればハイになれるようで、つまり「何かを撮っている」ということが一番重要なものだから、「そこに何が映っているのか」ってことは基本的にどうでもいい。おおよそいい感じ、であれば。だから役者がセットにぶつかろうが発泡スチロールの墓石が倒れようがさほど問題ではない。いわく「パーフェクト!」。

彼を演じるのはジョニー・デップ。実際のエドさんもなかなかの色男なので、「ややとち狂ったイケメン」ぶりが板につく。ちなみにエドさんは女装が好きな服装倒錯者でもあったので、その筋でも先駆者なのだった。
それにしてもこの作品のエド・ウッドはチャーミングである。エドはダメ映画監督だったかも知れないが、人間的には全然ダメじゃない。
彼はそのチャームさで人脈を集め資本を募り、とにもかくにも作品を作り続けた。
その中の大物にベラ・ルゴシがいる。『魔人ドラキュラ』その人だ。ゴスを掘り下げれば元祖中の元祖が彼のドラキュラ伯爵だと思うのだけれど、エドと知り合った頃には仕事もなく落ちぶれたハンガリーの老人。しかもアルコールとモルヒネ中毒。
エドはベラの大ファンだったので「ぜひ自分の作品に出てくれ」と依頼する。仕事のない俳優は出演することになるのだが、現場にある動かない大ダコのセットに自ら飛び込み、「自分の手で」タコの触手を動かして「ぎゃあああああ」とかやっていたんだけど、実際のところ心中はどうだったのだろう。
そしてベラの演技は一昔前の芝居がかかったものだったので、スッカスカのエド作品に少しは厚みを加えた(のか?)。とにかく「あのベラ・ルゴシが出演!」ということは、なんもないエド作品にとって超目玉なのだ。
ちょっと面白いのはベラがやっかみなのかボリス・カーロフのことを「フランケンシュタインなんてのは、うおー!とか唸っていれば誰だって出来るんだ」などとやたらバカにしていて、エドも「そうそう!ドラキュラは優雅でなきゃ!」と調子を合わせてる。ダメ映画監督と落ちぶれ俳優の微笑ましい友情。
(カーロフはあのメイクながらとてつもなく哀しい目つきをしていて、自分は大好きなのだけれど、まあいいいか)
ベラ・ルゴシは治療費が払えないためリハビリ施設を追い出されたのち死んでしまう。貧乏ダメ監督であるエドは「もう大丈夫だから退院だよ」と言ってあげることしかできない。

もう一人はヴァンパイラ。テレビの人気女性ホラー・ホストだが仕事を干されていたので、「まいっか」という感じで作品に出演することを了承。ヴァンパイラの映像は現存せず、彼女の動く姿が観られるのはエド・ウッドの代表作『プラン9・フロム・アウタースペース』だけらしい。
これねえ、ほんっとにつまんなくて、内容は、宇宙人が地球人の死体を蘇らせてみたら超楽しくね?的な、・・・・すいませんまともにみてないのでよくわかりません。
ただUFOは灰皿で、宇宙人の服はドンキホーテ以下ということはわかった。ちなみに、近所の教会をうまいこと言いくるめて出資させた。
ともかく、セリフはないものの女ゾンビとしてヴァンパイラが出演している。エド・ウッド最大の功績は「動くヴァンパイラを映像に残したこと」かも知れない。

まとめれば「でも、やるんだよ!」の人。少なくとも自分の作品づくりを楽しんでいたし、その点で「志が低い」なんてことはまったくない。原案・素材の作成・編集の才能が皆無だっただけで。
「我々はみなエド・ウッドなのだ」などとは絶対言ってはいけない。ものを作っている人はそう言いたいだろうけど、絶対、一緒じゃないから。
エド・ウッドの本当の凄さは「自分の才能がまったくないということを一切認めない才能」であり、この根本に揺るぎがないから「史上最低の映画監督」というある意味最強のアイコンに成り得た。エド・ウッドはどこまでいってもエド・ウッドひとり。彼は「そこそこやっていけてる人」とは明らかに違う、異端者=フリークスなんである。
劇中でオーソン・ウェルズがエドに「他人の夢を撮ってどうする。自分の夢を撮れ」と言うシーンがあるのだが、「ちょっときれいすぎじゃね?」とは思ったものの、実はエド・ウッドに対してはその通りなのだった。

この作品はとても優しいし感動的だ。もちろんオタクではみ出し者のティム・バートンが優しい視線で作っているからなのだが、クズ文化が好きなオタクもそうじゃない人もじわっと来ると思う。つうか、これを貶すのは人間じゃないです。
が、後追いで一連のエド・ウッド監督作品は、観なくていいと思います。感動の涙も一瞬で乾くというものです。むしろ観るならば1931年の『魔人ドラキュラ』。
そういえばこの前のアカデミー賞をモンスター映画が総なめで受賞したとき、中継の町山智浩氏が思わず涙をこぼしていた。あれは「俺たちが大好きなやつをやっと世間が認めてくれた!!」という、本物のオタクの涙であった。


トッド・ソロンズの地雷犬物語

 

『トッド・ソロンズの子犬物語』(2017)。これは「トッド・ソロンズの~」が重要なのであり、つまり「混ぜるな危険」とか「お子様の手には触れない場所で保管してください」のような但し書きと同じ意味である。
なので子犬じゃなくて「トッド・ソロンズのコビトカバ物語」でも、「トッド・ソロンズのアメフラシ物語」でも、「トッド・ソロンズのポルカドットスティングレイ物語」でも成立する。
ウィンナードッグ(ダックスフント)がバトンされるエピソード4話で構成されたブラックコメディ。
登場する犬がかわいいからと本気の犬好きの人が観れば、怒りで逆上すること必至の怪作。はい、ぼくはちゃんとここまで伝えたよ。

第一話。癌で治療中の子供に父親が犬を買い与える。のはいいんだけど、「躾け」に対して子供が「しつけるってどういうこと?」と聞かれると父親は「犬の個性を打ち砕くことだ」「個性とは、お前をお前らしくしているもののことだ」と答える。
例によってあんまりな応酬だが、「躾け」は人間にも使う言葉ですよねえ。うーむ。
子供は親の留守中にウィンナードッグにシリアルを与えて、下痢便をぶちまけさせて大目玉を食らうのだが、すべての動物映画が避けて通ってきたマジな汚さです。
その後、犬を避妊手術に連れて行くことになるが、母親は「ママの飼ってた犬は野良犬にレイプされて病気を移されて死んだのよ」とまたまたあまりにも、デリカシーがない言葉をぶつける。
もちろん両親は立派な社会人であり、立派に子育てをしている、つもり、なんである。
エピソードが終わる頃には幼い彼は、「どうせみんな死ぬんだ」と達観しちゃう。
病院に運ばれた犬は、女性の看護士によってそっと連れ出され、そこから第二話へ。

この第二話がちょっととっつきにくいのだけど、先の女性が名が「ドーン」で、『ウェルカム・ドールハウス』の後日談になるという仕掛け。
ドーンは偶然、同級生でいじめっ子だったブランドンと再会してなんとなくいい感じになり、彼の家へ。
妹と弟がいたが、二人ともダウン症。
音信不通だったブランドン家の父親が死んだことを妹と弟に伝えると、彼は車で当てのない旅に出ようとする。ドーンも同行することに決め「ドゥーディー(犬の名前。意味は「うんち」)はあなたたちに預ける」と、実質上、犬を捨てる。
「好きな男と好きなように生きるので、犬はもうどうでもいいです」ということ。ひっどい。

そして人をなめきったインターミッションの映像(※休憩時間。90分しかないのに!)の後、ダニー・デビード主演の三話へ。彼独特の体躯と、ヨレヨレ感が合わさってなんともいい風情。
ダニーは売れなくなって映画のシナリオ学校で講師をしている脚本家。生徒はバカばっかり。
しかも生徒はダニー式の「だったら、どうする?」という発想法を古臭いといってバカにしている。
あるバカ生徒はいろいろまくしたてるけれど「君の好きな一本は?」と聞かれると「えええ。多すぎて答えられませんよお」と答える。しかも「あっそれは引っ掛け問題ですね?」。バカは余計なことを考えるものだなあ。
といったバカを相手にしているうちにストレスが溜まりまくり、ある出来事をきっかけに、彼は学校にある過激なリベンジを仕掛ける。
もちろんソロンズ作品なので派手なことは起きないのだが、彼の理論「だったら、どうする?」がブラックなオチへとつながっていく。

最終話。金持ちのおばあちゃんに金の無心に来た孫娘。しかも彼氏を連れて。
その彼氏ってのが絶妙にアホアホなスタイリングで決めたボンクラ黒人で、自称アーチストであり、名前はファンタジーと云う。
そして我々はダメ孫が盲目の祖母に無心する様子を「ほぼリアルタイムで見せつけられる」という意地悪にあう。せっかく、映画をみているというのに、だ。
アートかぶれの孫は女優にも首をつっこんでいるらしく、「今度役がついたの。ジャンキーの売春婦で。出番はちょっとだけど深い役なのよ」。そんなわけ、ねーーーーだろーーーっての。
しかも孫は「おみやげ」としてダチョウの卵をひとつ持ってくる。一体何がやりたいのか?アートか?
彼らが帰ったあと、老婆は夢を見る。それは少女たち(かつての自分。人生の分かれ道で捨てていったわたし)がお別れの挨拶をしに現れるというものだ。
ひとりひとりが「人生をがんばったあなた」「他人を愛したあなた」「自分を愛したあなた」「母親や娘を許したあなた」etcで、最後が「チップをはずんだあなた」。
彼女たちが全員手をふり、「さよーならー」。
老婆は「行かないで!」と、はっと目覚める。「チップをはずんだ自分」にまでバイバイされるとは、この人にはいったい何が残っているのか?という残酷なオチ。
そして老婆が飼っている犬(名前はキャンサー。「癌」という意味)が・・・・という愛犬家憤慨のマジでひどいラストがあり、休憩時間(ははは)にも流れた妙に哀愁のある曲でエンド・クレジット。
すべてのエピソードがピーカンで展開し、よく考えたらトッド・ソロンズ作品はひどいことがおきるからといって、曇天や雨になったりとかのわかりやすい記号は皆無であり、彼の色合いはまさに「アメリカの青い空」のように、明るく突き抜けてポップなのだ。


ダークホースにもなれなかったよ



これは確か精神科医の受け売りなのですが、「あなたはやればできる子」とは「やらなければできない子」と同意である、ということ。つまり普通の子は「やらなくてもできる」ので、やらなくてもできる子がやる気を出せば、さらにできるようになる。というわけで両者の差は縮まらない。
これはものすごく身に覚えがあることなので、残念ながら真実である。そして「やればできる子」がなにもやらないでいると、背中も見えないくらい「普通の子」との距離が遠くなる。
さらに残酷なことを言えば「やってもできない子」も確実に存在する。うわああああああああ。
『ダークホース~リア獣エイブの恋』(2011)はそんなお話。まだまだトッド・ソロンズまつりは続いています。
しかしこの日本版タイトル。「リア充」じゃなくて「リア獣」。ソロンズにあてられたような皮肉センスだが、確かに主人公エイブは「リアルなけもの」みたい。
自分の感情にものすごく素直。父親の不動産会社で働いているがあんまりやる気もないようで、他の社員はスーツ出勤なのにこいつはTシャツにスウェット。
うるさいパパ・優秀な弟・返品に応じない店員などには即効でブチ切れ、やさしいママ・やさしい同僚の事務員おばさんには徹底的に甘える。交友関係の描写は一切ないので、「友達はゼロ」ということなのだろう。
そんな彼がパーティーで知り合ったメンヘル美人に恋をして、デブハゲブサイクの自分にふりむいてもらうためになんとかがんばるのであった。

パパはクリストファー・ウォーケンで(一目でわかるヅラをずっと着用。最高ですな)、ママはミア・ファロー。ある意味で史上最も恐ろしいホラー『ローズマリーの赤ちゃん』のヒロイン。
この二人からなぜ君が?弟はスリムなイケメンなのに。というわけで本人は自分を「ダークホース」だと思っている。仕事を覚える気はないが自惚れは強いようで「歌手になりたかったのにパパに反対された。十代のスターになる夢も絶たれた」とのたまう。
この辺のねじれ感覚は松田洋子『薫の秘話』のチビデブハゲマザコン引きこもり理屈だけはいっちょまえの主人公「橘薫(たちばな・かおる)」に通じるものがある。
実際エイブはリア充に見えなくもない。とりあえず親の会社で働いて、裕福でもあり、父親は「お前が家を買うなら援助してやる」とさえ言ってくれる。
ただ、彼はやっぱりどうしょうもなく孤独で不幸なのだ。金も仕事も親もあるけれど、当の本人はまったくもって、なんっにも、持っていない、という不幸。
長谷川和彦の『青春の殺人者』は、親の出資でスナックのマスターをやっている息子が反逆して、両親を殺し恋人と逃げるという話だが、トッド・ソロンズは絶対に、そんなドラマチックな展開を作らない(ちなみにこの親殺し息子は、若き日の右京さん・水谷豊)。
で、一応エイブと彼女はつきあうようになる。が、彼女の気持ちとしては「自分はB型肝炎だし、作家になる夢もあきらめて、リストカットもやめて(なんかもうどーでもいいから)、あなたと結婚する」という前向きな部分がまったくない交際。
この辺からエイブに厳しい現実が襲いかかる。パパは会社を首にすると言い出し、ママは弟を引き合いに出してきっつい本音をぶちまけ、(地味なはずだった)同僚のおばさんは実は波乱万丈なイケイケウーマンであった。
そしてヤケになったエイブは車を暴走させ大事故、両足を失い、彼女から移されたB型肝炎で死んでしまう。

ネタバレしてしまったが、ソロンズ映画は気付かれないようにそっと致死量の毒を盛るような作風なので、まあ多少の解説ありでもいいじゃないですか。こっちもがんばって書いとる。
死の直前、病気で全身まっ黄色になったエイブが事務のおばさんの唇を(無理っぽく)奪い、生涯最後のキスをする。ただそれが好きな彼女ではなく「安全パイのおばさん」ってとこがね。女子は見てても泣けないよね。あっはっはっ。
そして家に現れたエイブは(幽霊?)は壁紙に「パパのダークホース・エイブ」の文字を発見する。
ここはちょっといい場面のような気が、するんだけど、こいつは結局ダメ息子のまま死んじゃったのである。とにかく底意地が悪いお話だ。
意地悪はそれだけで終わらず、エンドロールで流れる曲。誰だか分かりませんが、大意はこんな歌詞。

「今日は完璧な日 人生を踏み出し変化を起こす
君は君のまま何にでもなれる 巻き返していこう
君の夢がどこかで待ってる 新しい君が始まる夜明け
あるがままの君を恐れないで」

まさに腐れJポップそのままの歌詞で、ポジティブなメロディと真っ直ぐなボーカルで歌われる。
ところがこの主人公は「何も変化できず、どうしようもない自分のまま巻き返しもならず、夢も希望も踏んづけられて、あるがままの感情で暴走したら死んじゃった」という、まさに歌詞を反転したような人生。
この手の「馬鹿ポジティブソング」が大嫌いなので、初見は「ざまあ!!」と思ったのが正直なところ。
ただ、こうした「やってもできなかった人生」は確実にある。ゴロゴロしている。
夢や悪夢を描くのが映画ではあるのだろうけど、こんなイケてないあるある作品ばかりを撮り続けるソロンズは「オンリーワンな、世界にひとつだけの毒の花」なのだと思う。




しかし、この予告編も大傑作。

アビ松さん



『おわらない物語~アビバの場合』(2004)は12才の少女が妊娠するという作品なのだが、親にとって「子供が子供を産む」ということは「子供が子供を殺す」と同じくらいとんでもないことなのだろうなあなどと、鬼畜なことを考えた。
葬式のシーンから始まる。故人の名は「ドーン」。『ウェルカム・ドールハウス』のメガネブス、あ、いやいや、主人公である。しかも死因は自殺らしい。トッド・ソロンズは自分が生み出したキャラを冒頭で死なせて「つかみ」とした。き、鬼畜。
女児(アビバ)が母親に「ドーンはなぜ死んだの?」と聞く。母は「両親に愛されなかったの。皮膚科に行くかダイエットすれば違ったかも知れないけど」と答える。いきなり、あんまりですね。
ここでおかしいのは母親は白人なのに、少女アビバは黒人なのである。以降、エピソードが変わるたびにアビバを演じる女優が入れ替わり、計8人のアビバが登場する。
後にアビバは妊娠し、彼女は「絶対産む」と言う。母親は「障害者や体が欠けている子だったらどうするの!それに今はまだオデキみたいなものよ!」と実も蓋もなくぶちまける。なんかもうちょっと言い方はないものかとも思うが、考える前に出てくるナマの言葉ってのはこんな感じなのだろう。「きれいごと」はもっと後からついてくるものだ。
中絶は行われるが、母体が幼すぎたため子宮も一緒に摘出せざるを得なくなるという最悪の事態。
そしてアビバは家出をして、「ろくでもない人々」と出会う。

特にとんでもないのがサンシャイン・ファミリー。ここでのアビバはたいへんファットな黒人少女なのだが、ファミリーに養われている少年に連れられて、彼女もそこに在籍することになる。
ちなみに生まれて来られなかった子供の名は「ヘンリエッタ」で、この作品中、ヘンリエッタもアビバと同じキャラとして登場。なので混同してオーケー。
ファミリーはキリスト教原理主義者の夫婦が、わけありの子供たちと集団生活をしている施設。
サンシャイン夫婦を中心にボランティアと布教活動を行う立派な慈善団体ではあるのだが、裏では「中絶手術を行う医師」を密かに暗殺している狂信者集団でもあった。きっついでしょ?
子供たちでダンスチームを組み、キリストを讃えるオリジナルソングを歌ったりもしている。その中には両腕がない少女やダウン症など、本当に体に障害のある子供たちがいる。アルビノの少女も本当に盲目っぽい。
この内容にして、よく出演したものだと思う。それ以上は言葉が出ません。
特に「ひどっ!」と思ったのがアビバを連れてきた先ほどの少年が「いいもの見せてあげる」と森に向かう。
「ここはよく堕胎業者が中絶した胎児を捨てていくんだ・・・・・ほら!」アビバたまらず「キャーーーーッ!!」。そりゃそうだ。
韓国映画を観ていると子役の扱いが「ひどっ!」と思う。汚いセリフも言わせるし、何より子供を殺すことに躊躇がない。「子役だからかわいく撮ってもらえると思ってんじゃねえぞ!」という実に大人な態度で接しているのである。「プロフェッショナル」とも言う。韓国の子役は鍛えられるだろうなあとも思う。
ざっと思い出しても、洋画で同じようなスタンスを取っている監督はトッド・ソロンズしか思い浮かばない。

いろいろあってちょっと不思議なラスト(ネタバレ~)。冒頭の黒人アビバに戻り、「今度こそママになれそうな気がする」と微笑む。
これは「いろいろあっても人生はリセットできる」ということなのだろうか。とにかく観終わると「はあ・・・・」とこちらが消耗するオチを持ってくるソロンズだが、これは異例。彼の作品中、もっとも「やさしい」と言えるのかもしれない。
不思議な作品ではあるけれど、ソロンズの手のひらで転がされてみるとなかなか気持ちのいいものでもある。
いわゆるアートでもなく、いわゆるエンタメでもなく、いわゆる文芸作品でもない。
爆笑できるわけでもないし、残酷シーンがあるわけでもないし、暴力描写もないが、トッド・ソロンズの映画が観客の心に波及する効果はコメディであり、サイコホラーであり、バイオレンスでもある。という、たいへんタチの悪い代物なのであった。

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